サン・ポール教会


サン・ポール教会は、旧市街地の北端、サン・ポール地区にある。サン・ジョルジュ教会、サン・ジャン大聖堂に並ぶリヨンで最も古い教会の一つである。

ロマネスク様式とゴシック様式が融合した建造物で、上部から光が入る塔 TOUR LANTERNEは1920年に、教会全体は1996年から歴史的建造物に指定されている。

549年に、リヨンの司教、聖サセルドス SAINT - SASERDO によって建築された。732年にムーア人、モール LES MAURES によって破壊されるが、サン・ジョルジュ教会と同様に、800年に、レイドラド大司教によって再建された。

10世紀には、サン・ポール教会と隣にあったサン・ローラン教会の後陣の背後に3つの墓地を持つリヨンで最も重要な共同墓地があった。

教会は、何世紀にもわたって、再建と修復が繰り返されてきた。12世紀から13世紀には教会の内陣と八角形をした二つの重なったドーム、13世紀には鐘楼、15から16世紀にはゴシック様式の側面のシャペル、18世紀には礼拝堂の奥殿、19世紀には革命による破壊後の大修復など。


聖ポールのこと

聖ポール SAIN - PAUL は、初期のキリスト教の理論家であり、新約聖書の著者の一人として、キリスト教発展の基礎を作った。ユダヤ名ではサウロ、ギリシャ語では、パウロス、日本では、パウエル。

カトリック教会では、使徒と呼ばれ、大変に崇敬されているが、イエスの死後に信仰に入ったため、イエスの弟子ではなく、「最後の晩餐」の12使徒の中には数えられていない。

古代ローマのタルソス(現在のトルコのタルスス)生まれのユダヤ人でテント職人であった。初めは、ユダヤ教徒であったが、キリスト教へ回心し、多くの異教人に布教を続けた。60年代後半、ネロ皇帝の時代にローマで殉死したと言われる。

34年頃に、ダマスコの近くで、「なぜ、私を迫害するのか」というイエスの声を聞いた後に、目が見えなくなるが、キリスト教徒のアナニアが彼のために神に祈り、目から鱗のようなものが落ちて、目が再び見えるようになったという。こうして、パウロはキリスト教徒に回心した。

この話は、「パウロの回心」と言われ、一般的には、イエスの幻を見て馬から落ちるパウロの姿で表現されている。

サン・ポール教会の入り口のネオ・ゴシックの扉の上の三角小間にも、この様子が表現された彫刻 「SAINT - PAUL SUR LE CHEMIN DE DAMAS 」がある。


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サン・ポール教会


奥に見える八角形をした二重のドーム
上部から光が入る塔 TOUR LANTERNE

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サン・ポール教会の入り口の扉

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馬から落ちている様子「パウロの回心」


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サン・ポール地区の歴史


ブルジョワ、商業と経済の中心のカルティエ

サン・ポール地区は、リヨン旧市街地3地区の中で、北側に位置し、サン・ポール教会を中心に形成されている。

中世上期から、サン・ポール僧会の聖所は、サン・ジャン僧会のそれに次ぐ強力なものであったことが知られている。

12世紀まで、サン・ポールは、旧市街地の中心地にあるサン・ジャン地区から隔離されていた。庭園、ぶどう畑、果樹園などに囲まれ、修道僧たちが閉じこもって生活できるように、壁に囲まれていた。

また、サン・ポール地区には、1384年に、シャール6世によって追放されるまで、現在のジュイヴェリー通りあたりに多くのユダヤ人が住み、コミュニティーを形成していた。

さらに、中世から、このカルティエは食品商業に専門化していった。特に、生肉業者が倉庫、厩舎、家畜などを引き連れて、サン・ポールに住居を定めた。

12から13世紀になると、橋、港、手形両替所(銀行)、さらにサン・エロワ病院 HOPITAL SAINT - ELOY などが近くであったことから、民衆を引きつけて人口が増加してゆく。この現象は、14から15世紀まで続く。

特に、リヨン市が自由市場の開催許可によって、重要な経済の中心地になると、サン・ポール地区もこの恩恵にあずかり、繁栄した。これは、15世紀に、現在のアンジル通り RUE DE L’ANGILE に、メディシス家 LES MEDICIS が銀行の支店の一つを置いたことでも象徴付けられる。

1553年には、ボンディー岸 QUAI DE BONDY に、南東の地域からくる全ての商品をコントロールする任務を負った税関も設けられた。フランス中からやってくる貴族や著名な人々が滞在する多くの旅籠屋も建てられた。

このように、ルネッサンスの時代にカルティエは新しい様相に変わってゆく。商人や大金持ちの人達が住居を修復、改装した。これらの素晴らしい建物が、現在でもジュイヴェリー通りやレネリ通り RUE LAINERIE で見うけられる。

やがて、サン・ポール地区は、シテの経済の中心となるシャンジュ広場まで広がっていった。まさに、ルネッサンスの時代は、商業と経済のカルティエとなり、サン・ポール地区の栄華の時代であった。



シャンジュ広場の手形交換所 LOGE DU CHANGE
現在は改革派教会と成っている

フランス国王シャール8世 CHARLES やルイ LOUIS 12世がここでパーティーを開催し、フランソワ FRANCOIS1世やアンリ HENRI 4世は、ジュイヴェリー通りに滞在した。

17世紀の劇作家モリエール MOLIERE は、ボンディー岸にあった LA SALLE DU JEU DE PAUME で、エトウルディ L’ETOURDI の最初の上映をしている。

同時に、サン・ポール地区は、宗教地区としても非常に活動が盛んであった。多くの宗教団体がここに修道院 COUVENT を設置した。(LES RAZARISTES、LES ROCOLLETS、LES CAPUCINS、LES CARMES DECHAUSSES、LES BENEDICTINES、LES AUGUSTINES など)幾つかは、現在も存在している。

さらに、二つの隠遁所 RECLUSERIE がサン・ベルテレミー坂 MONTEE SAINT-BARTHELEMY とピエール・シエーズ岸 QUAI PIERRE-SCIZE に建築されたことは、この地区が宗教的に重要であった様子をよく物語っている。

やがて、17から18世紀に入ると、シテの中心は、次第にソーヌ川の左岸、プレスキルへと移動して行き、サン・ポールは衰退してゆく。旧市街地は、次第にその影響力を失っていった。

特に、フランス革命の1789年には、旧市街地やフルヴィエールの丘の宗教的建造物の多くが破壊されてしまった。修道院は、公共の建物、軍隊、学校などに変換された。サン・ポール地区は、敗退の一途を辿った。

1872年から、サン・ポール教会の向かいに、マンジニ会社 MANGINI によって、リヨン - モンブリゾン線 LIGNE LYON - MONTBRISON のサン・ポール駅の工事が開始され、1876年に完成した。

この工事で、周辺の50戸以上の家が取り壊され、5つの通りが姿を消したという。また、サン・ポールとフルヴィエールの丘の反対側の町のゴルジュ・ドウ・ルー GORGE DE LOUP をつなぐトンネルも作られた。

さらに、刑務所の建築も計画されたが、最終的には、ペラッシュ駅の南部に、サン・ポールという名前の刑務所が建築された。ちなみに、この刑務所も近年に破壊、改造がなされ、カトリィック大学となっている。

1900年には、サン・ジャン地区からサン・ポールとフルヴィエールの丘を結ぶケーブル・カーが開通される。主に、フルヴィエールの丘の上の墓地 LOYASSE へ行くのが目的であったが、採算が取れずに、間も無く閉鎖となった。

多くの破壊と建築で、サン・ポールの様相は大きく変貌した。現在は、旧市街地で、最もモダンな様相をなしていると言える。

それでも、リオンのカルティの歴史とともに、それぞれの時代の名残り、何世紀にもわたる破壊と再建を繰り返しながらも残されてきたサン・ポール教会の中世の部位、ジュイヴェリー通りに残る中世の建物やルネッサンスの中庭などが守られている。

ちなみに、サン・ポールは、タベルニエ BERTRAND TAVERNIER 監督の「 L’HORLOGE DE SINT- PAUL 」など、映画の舞台にもしばしば登場しているようである。


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サン・ジャン地区の散歩


サン・ジャン通り

サン・ジャン地区のメイン・ストリートはサン・ジャン通り RUE SAINT-JEAN 。17世紀から、この名前で呼ばれているが、これ以前は、単に、“大道り”と呼ばれていたそうである。現在は、レストランや商店の密集する、リヨンで最も人通りの多い歩行者天国の一つとなっている。

3世紀に、リヨンの住民がフルヴィエールの丘上のルグドゥヌム LUGDUNUM を下りて現在の旧市街地へ移住してきた頃から存在するとても古い石畳の小路で、エシャンジュ広場 PLACE DU ECHANGE (手形交換所)とサン・ジャン大聖堂の広場を繋いで入る。

サン・ジャン通りは、通りの両側に並ぶ古い家々が見所。多くの家は、中世の基盤の上に、ルネッサンスの建築と装飾がなされていて、その殆どが1937年に歴史的建造物に指定されている。

さらに、サン・ジャン地区を含めたリヨン旧市街地の3地区は、1964年からは、文化大臣マルロー(マルロー法 LOI MALRAUX )によって、フランスで初めての歴史的保護地区に指定されている。

入口の扉、窓枠、アーチ状の柱、彫刻、などが美しい。また、本当に素晴らしいのは、内部の中庭にあるギャラリー、回り階段、井戸などのあるトラブールである。まさに、15から16世紀にかけてのリヨンの繁栄を伝える通りである。ゆっくり静かに歩いてみたい。

外から見られる家々の特徴的は、

2番地の二つに分かれた不思議な入口、6番地の窓と桁、7番地の特徴的な窓枠、11番地の厳格な扉(1619年)、12番地のクジャクの彫刻、16番地の天使とリスの彫刻(リヨンでよく見られる)、17番地の交差した欄間、27番地の窓枠、29番地の松の実の飾りとアーチ状の扉(15世紀に建築のヴィストの家 MAISON DES LE VESTE )、37番地のシャマリエの家 (1496−1516年に建築、MAISON DU CHAMARIER)、39番地の入口の扉、40番地の聖人の彫刻(頭を少しかしげて、通行人を監視しているとも言われる)、44番地の奇妙な正面、52番地のラテン語の記載(15世紀のレロワの家 RESIDENCE GILLAUME LEROY )、66番地の彫刻とアーチ型の要石、トラマサック通り RUE TRAMASSAC の角にあるマリア像、グーヴェルヌモン広場 PLACE GOUVERNEMENTにあるマリア像など、数多い。

また、リヨン風の特徴的建築が大変興味深いトラブールで、一般公開されているものには、

7番地からロマン・ローラン岸へゆくもの、
10番地からガダーニュ通り2番へ抜けるもの、
27番地からトロワ・マリー通りへ抜けるもの(2つの中庭)、
34番地からブフ通りへ抜けるもの、
40番地からヌーヴ・サン・ジャン通りへ抜けるもの、
41番地からマンデロ通りへ抜けるもの、
50番地には2つの塔のある中庭
44番地には2つの螺旋階段のある中庭などがある。

ルネッサンス時代の王室の訪問した所としても重要であった。1465年に、ルイ1世 LOUIS 、サヴォワの公爵 DUC DE SAVOIE が痛風の発作 CRIDE DE GOUTTE で亡くなったのもこの通りであったそうだ。また、シェマリエの家には、1672−1673年に、セヴィニエの公爵夫人 MARQUISE DE SEVIGNE が滞在している。

変わった所では、裁判所のあった35番地。1910年に、ロカー医師 docteur EDMOND LOCARD が、警察の科学研究所 POLICE SCIENTIFIQUE を始めた場所である。


ブフ通り 

ブフ通り RUE DU BOEUF は、サン・ジャン地区のもう一つの歩行者天国通り。サン・ジャン通りと並行して走り、北はガダーニュ通り RUE GADAGNE 、南はトラマサック通り RUE TRAMASSAC へと繋がっている。

通りに並ぶ家々は、すべて、16−17世紀頃の中世のものばかりである。11番地の扉枠、14番地の欄間 IMPOSTE の彫刻、16番地の扉枠と欄間 IMPOSTE の彫刻、19番地の看板(1708年)、21番地の扉、22番地のメダルのポートレートなどが見所。

また、旧市街地で最も長いことで有名なトラブールは、ブフ通り27番地からサン・ジャン通り54番地へ、4つの家を通り抜けて続いている。ブフ通り7番地からサン・ジャン通り34番地へ抜けているトラブールは、中庭が素晴らしい。16番地のクリブルの家 MAISON DU CRIBLE のラ・トウール・ローズ LA TOUR ROSE の見事なバラ色の塔も見逃せない。

特に、有名で素晴らしいのが、ラ・クール・デ・ロージュ LA COUR DES LOGES 。レストランとホテルを兼ね、催し物の会場にもなるので、ぜひ内部に入って素晴らしい建築を見てみたい。フーセレ広場 PLACE FOUSSERET には、この壁画がある。

ボンバルド通り RUE DE LA BONBARDE との角には、手のないマリア様の彫像がある。ヌーヴ・サン・ジャン広場 PLACE NEUVE SAINT JEAN の角には、ブフ(牡牛)の像もある。ところで、ブフ通りは、16世紀にこのブフの像が置かれるまでは、ブフ通りはトラマサック通りの一部をなしていたそうだ。

また、何世紀も前は、フルヴィエールの丘のローマ劇場の上にあったシベールの神殿 LE TEMPLE DE CYBELE (キュベレーという古代の大地母神のフランス名)での儀式へ向かう生贄の牡牛の行進がここを通過したという。

ルイ12世に魔法を教えたという錬金術者ジャン JEAN が住み着いた所としても知られている。また、15世紀には、硬貨の製造所があり、1491年に、シャール8世 CHARLES とアン・ドウ・ブルターニュ ANNE DE BRETAGNE の結婚を祝う最初の硬貨、ルイ12世の肖像のある硬貨などが製造されている。これらの硬貨は、リヨン美術館に収められている。


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フランソワ1世が滞在したガダーニュ

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ラ・クール・デ・ロージュの ホテル

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ブッフ通りの建物の角のブッフ(雄牛)の像


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サン・ジャン大聖堂


サン・ジャン大聖堂は、旧市街地の真中、サン・ジャン地区にある。ロマネスク様式とフランボワイヤン・ゴシック様式との混合建築となっているのが特徴で、1862年に歴史的建造物に指定されている。

この大聖堂は、殉教者(177年に、リヨンで初めてキリスト教徒が殺害された)と聖ポッタン POTHIN (ポティヌス)によってリヨンで設立された、ゴール(フランス)の最初のキリスト教会としての記念に、教皇グレゴワール7世 GREGOIRE (グレゴリウス7世)によって、1079年から「ゴールの首席司教 PRIMACIALE DE GAULES 」という名誉の呼称を与えられ、PRIMACIALE SAINT JEAN とも呼ばれている。

歴史的に重要な大聖堂で、様々な出来事の舞台となってきた。2回の教議会(1245年と1274年)の開催、1316年の教皇ヨハネス22世 PAPE JEAN の戴冠式、1600年のアンリ4世とマリー・ドウ・メディシスの結婚式など。今日でもリヨンの主な宗教儀式はこの大聖堂で執り行われている

大聖堂の大きさは、80m x 26m の広さ、高さ32.5mである。かつてここにあった3つの教会の代わりとして建築された。この古い2つ教会と4世紀の礼拝堂の遺跡は、大聖堂横の考古学公園に残されている。

大聖堂の建築は、1165年から始まり、3世紀にわたって続けられた。時代の変遷とともに、その様式も、ロマネスク様式、ゴシック様式、フランボワイヤン・ゴシック様式と変わっていった。最初は、ソーヌ川に近いロマネスク様式の礼拝堂奥殿から開始され、ゴシック様式の正面ファッサードで終了している。

内部は、かなり小さく簡素で、金色に輝く豪華なフルヴィエール大聖堂とは対照的であるが、上方にあるステンドグラスが明るく美しい。

旧約聖書と新約聖書のシーンを現した外陣にある2つの大きなバラ窓は、14世紀の終わりに完成した。南側の窓は冷たい色合いで北側の窓はより暖かい色合いというように、その配置場所と太陽光線を配慮した構成がなされているそうである。

同じく、14世紀のファッサードにあるバラ窓は、復活祭の子羊の話 HISTOIRE DE L’AGNEAU PASCAL の聖ジャン・バティスト SAINT JEAN - BAPTISTE と聖エティエンヌ SIAINT - ETIENNE の生涯を語っている。この2人は、大聖堂の守護聖人である。

ファッサードの3つの扉は、約300のメダイヨンによって飾られている。これらは、聖ジャン・バティストの話、ゾディアックなど、新約聖書と旧約聖書の物語のシーンの連続を現わしている。このファサードの上部と塔が完成したのは、15世紀であった。

宗教戦争の時代、1562年に大聖堂は破壊され、ファッサードのニッシュにあった聖人の像と3つの扉の天使たちは、すべて斬首されてしまった。フランス革命の時代には、すべての残りの像のが破壊された。像があった場所は空洞のまま残っている。

最後の破壊は、第二時世界大戦中の1944年。取り除かれなかったすべての絵ガラスの窓が壊されたと言うことである。

大聖堂前の広場には、ジャン・バティサン・ジェズ SAN BAPTISANT JESUS の像を表した噴水がある(1844年)。


天文時計 HORLOGE ASTRONOMIQUE

14世紀(16から17世紀に修正)の天文台時計が大聖堂の奥に置かれている。日にち、月と太陽と地球の位置、リヨンの空に見える星を現わしている。当時の知識に基づいているため、太陽は地球の周りを回るようにできている。

この時計は、高さ9.35m、幅2.2m。今でも1日4回、12、14、15、16時にときを告げているそうである。


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サン・ジャン大聖堂

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見事な彫刻で飾られた入り口

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内部のステンドグラスが特に美しい


サン・ジャン大聖堂の後ろ側

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立派な黄金の天文時計

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大聖堂前の広場中央の噴水 

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大聖堂の裏にある考古学公園に残る遺跡


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サン・ジャン地区


高貴な聖職者と貴族のカルティエ

サン・ジャン地区は、サン・ジャン大聖堂を取り巻いて広がる。ユネスコ世界遺産として指定された旧市街地3地区の中の真中に位置する。

リヨンの旧市街地と言ったら、ほとんどの人が思い浮かべるのが、やはりサン・ジャン地区であろう。旧市街地で、レストランや商店街などアトラクッションが非常に多い場所でもある。

カルティエを北南へ抜ける路地、最も重要な通りであるサン・ジャン通りには、中世からの古い、建築学的に重要な建物が建ち並び、リヨンの名物のトラブールや中庭などのルネッサンス芸術が集中した所でもある。

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フルヴィエールの丘からサン・ジャン大聖堂を眺める

シテが形成し始めた頃は、ソーヌ川の分岐が内部(ブフ通り辺り)まで入り込み、クレピュ広場 PLACE BENOIT CREPU の南で合流していて、サン・ジャンの小島 L’ILE SAINT - JEAN を形成していたようである。

3世紀頃からは、フルヴィエールの丘の西側の傾斜面が飽和状態となり、丘の麓での大規模な衛生事業が開始され、ソーヌ川の分岐は埋め立てられ、住民は丘の麓へと移住し、旧市街地が誕生した。

4世紀までのリヨンの歴史は、キリスト教団の歴史と深く関係している。この時期に存在したと想像される、後のサン・ジャン教会やサン・クロワ教会などの初期の遺跡が発見されている。

このような初期の時代から、サン・ジャンへの司教の就任など、司教グループの存在が見られたのは、その歴史的経過によるものである。リヨン市は、177年に殉教したゴロワの最初の司教 EVEQUE GAULOIS ポッタン POTHIN (ポティヌス)を庇護した、キリスト教徒誕生の首都であった。

474から535年のブルグンド BOURGONDES の支配の時代は、首都として君臨し続けるが、以前のような華やかさは失っていた。5世紀に形成された司教グループがシテの中心を成すとともに、プレスキイルには、サン・ニジエ SAINT - NIZIER やエネ AINAY 、フルヴィエールの丘には、サン・ジュスト SAINT - JUST 、サン・ティレーネ SAINT - IRENEE(イレナエウス)、サン・ローラン・ドウ・シューラン SAINT - LAURENT DE CHOULANS など埋葬のためのバジリカ寺院も設置した。

6−7世紀には、パリを本拠とするメロヴァンジアン ROYAUMES MEROVINGIENS (メロヴィング王朝)の時代となり、リヨンは第二の都市になってしまう。サラザン SARRASINS (サラセン人)の侵略の繰り返された長い不安定な時代や、カロランジアン CAROLINGIENS (カロリング王朝)への反乱の時期を経過して、シャールマーニュ皇帝 EMPEREUR CHARLEMAGNE (カール大帝)の政策と大司教レイドラッド ARCHEVEQUE LEIDRADE による実現によって、リヨンは昔の栄華を取り戻す。

大司教レイドラッドは、宗教建築の壮大な再建計画に専心した。聖歌隊学校、修道士の館、サン・ジョルジュ教会の修復、サン・ポール教会の再建などである。さらに、新しい2つの学校の開校、5つの修道僧の会、外国からの聖職者を魅了した図書館の開館などを実現し、知的、精神的輝きを発展させた。

11世紀に入り、街は、サン・ジャン地区に縮小された。住居は、防護壁の内部にある修道院の周りに集中し、大司教は大聖堂の西側のパレス、修道僧は南西側の修道院の周りに住んだ。リヨンの大司教の宗教権力は疑いのないものであった。

法律家、ブルジョワ、貴族、公証人などの館は、司教グループの北部に集中していた。ソーヌ川岸は、あちこちに荷揚げ場所を残して、2つの主要な通りであるトラマサック通りとサン・サンジャン通りに沿って、次第に、細く長く小さく分割された。

大司教の権力はますます拡大してゆき、12世紀の末には、司教グループと僧侶のカルティエをフォレ伯爵 COMTES DE FORET から防御をするという目的で、4ヘクターの防護壁を建造した。同時に、リヨンのブルジョワ、織物製造業のファミリー、法律家を中心とした勢力も増大し始める。彼らは、サン・ポール地区やプレスキルのサン・ニジエ地区に定住した。

この2大勢力は、1208年から1320年の間、抗争を繰り返し、大司教がブルジョワに折れて、執政官政治 LA CONSULAT を設置するまで続いた。毎年、各団体 CORPORATIONS から12人の執政官 CONSUL が選ばれ、市の政治、経済、社会、軍事、経済活動などを司った。

一方、14世紀の初めは、夏場の干ばつ、厳しい冬、洪水などの自然災害に加えて、イギリスとの100年戦争(1337-1453年)、1348年から16世紀までのペストの流行などが重なり、最も困難な時代であった。

このような状況に改善が見られるのは、国王によって1420年から出された自由市場 FOIRE の開催の許可を得た15世紀からである。年間4回のフォワールの許可は、イタリアなど国外からの銀行家(為替業者)や商人の到来と定住を促した(メディシス MADICIS 、ガダーニュ GADAGNE 、ゴンディ GONDI 、サルヴィアティ SALVIATE 、ボンヴィジ BONVISI など)。絹織物工場や印刷所もできた。

こうして、16世紀には、サン・ジャン地区は高貴な聖職者や貴族のカルティエとなり、「リヨンの黄金時代 LE SIECRE D’OR DE LYON 」と呼ばれるルネッサンス開花の時代となった。この時期に、高貴なファミリーが古い家をイタリア・スタイルの豪華な住居に改造し、カルティエにあった中世の家々は完全に修正された。

17世紀には、多くの宗教会がリヨン市にやってくる。住居は飽和状態となり、家屋は、上部へと追加され、今日見られるようなサン・ジャン地区の特徴的な高く細い住居の様相を呈してゆく。

17世紀半ばには、街はプレスキルへ拡張してゆく。まだ、ロジ・デュ・シャンジュ LOGE DU CHANGE のような美しい建物が建築されたが、サン・ジャン地区は、次第に貧困化と破壊が進行してゆく。

19から20世紀には、サン・ジャン地区は放置され、危険で不衛生な場所と化し、破壊することが考えられるが、1964年、建物と歴史的建造物の保護の計画 UN PLAN DE SAUVEGARDE によって救われる。

今日、旧市街地のサン・ジャン地区は、歴史や国家遺産を愛するリヨネと世界各国からの観光客が混じり合い、賑わう特権的なカルティエとなっている。


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ソーヌ川にかかる吊り橋 3


裁判所前の吊り橋

この吊り橋は、長さ126m、幅4mで、赤い色をしている。橋は、ソーヌ川の左岸にある一本の大きな支柱が数本のケーブルを支えるユニークなフォームをしている。やはり、何度もの破壊と再建が繰り返されてきた波乱の歴史を持つ吊り橋である。

ソーヌ右岸の旧裁判所の前にあるデュケール広場 PLACE DUQUAIRE (5区)と左岸のポー・デュ・タンプル広場 PLACE PORT DU TEMPLE とジャコバン広場 PLACES JACOBINS (1区)を繋いでいる。

ここには、1638年には10個のアーチから成る橋が存在していたが、1778年に破損が進行したことから破壊されたらしい。

1780年に、橋というよりは、渡り橋のようなものに置き換えられた。これは、12隻の船を連結して対岸へたどり着くような仕組みで、このうちの2隻は移動できるもので、はね橋「PONT VOLANT」 と呼ばれていた。これは、1789年の1月にあった氷の溶解で一部が流されて、1795年に完全に消失してしまった。

1797年に、新橋「 PONT NEUF」 と呼ばれる木製の橋が建造されるが、1820年に花火が落下して被害を受ける。続いて、1824年に洪水があり被害が増大し、1833年に最終的に壊された。

1833−1834年に吊り橋に置き換えられ(セガン MARC SEGUIN )、主に、ソーヌ右岸に建造された裁判所 PALAIS DE JUSTICE (1835年から1847年に建築)への通行を保証していた。

1840年に中心のアーチが洪水で破壊され、1844年に2つの柱に支えられた約80mの中央のアーチと約20mの2つの橋節から成る橋が再建される。通路は、約4mで1mの歩道があったそうだ。

1856年にほとんど橋全体が水につかる洪水があるが生き延びる。

1944年9月にドイツ軍が中央のアーチを破壊するが、1945年1月に再開通される。

1968年に、川の船の通航と車の通行を容易にする目的で、SERVICE DE LA NAVIGATION によって、裁判所の吊り橋とシャンジェ橋 PONT DU CHANGE とが同時に取り壊され、車も通れる頑丈な新しいジュアン橋 PONT MARECHAL JUIN が建造された。

裁判所前には、1982年、新しく歩行者専用の現在の吊り橋の建造(ランボレイ GILBERT LAMBOLEY )が開始され、1986年から利用されている。


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旧裁判所の前にあるデュケール広場 からの眺め

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一つの大きな支柱によってカーブルが支えられているユニークなフォーム

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ソーヌ川にかかる吊り橋 2


サン・ヴァンサン岸の吊り橋

ソーヌ川に掛かる吊り橋の一つ。長さは 76.5 m、幅は2.8 m、紫色をしている。2つの石造りの柱からケーブルで吊られている。とても軽い橋で、風に、また、人が歩いても揺れる橋である。

この吊り橋は、サン・ヴァンサン地区(1区)のサン・ヴァンサン岸 QUAI SAINT VINCENT とサン・ポール地区のピエール・シエーズ岸 QUAI PIERRE SCIZE (5区)をつないでいる。この辺りは、ソーヌ川がカーヴし、リヨンでも川幅が最も狭まっている所。ここに吊り橋がある理由の一つであろう。橋の真ん中で足を止めて、カーヴするソーヌ川の北上や、旧市街地の古い町並みの眺めも楽しみたい。

1637年に、初めての橋、木製の橋が建造(マリー JEAN CHRISTOPHE MARIE )された。1639年、当時は橋の通行税が取られていた。当時、歩行者の一人(マルテル GUILLAUME MARTEL) が通行料を払うよりも橋の官司を殺害する方を選ぶという出来事があったという。

1643年には、氷に運びさらわれ、1656年に新しい橋が設置されるが、1711年に、やはり同様に氷に運び去られる。1777年に、再び新しい橋(長さ約80m幅は7m)が設けられる。

古くなった橋の再建と場所の移動(より下流により簡単な吊り橋の建設)が提案される。1827年、建築が開始(タルパン TARPIN 会社)され、1832年に新しい吊り橋が開通された。

1840年、洪水で一部が損傷するが修繕され、現在に至っている。他の橋とは異なり、1944年のドイツ軍による破壊を免れた二つの橋の一つで、リヨンに残る最も古い橋である。




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吊り橋を支える2つの柱

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サン・ニジエ教会


サン・ニジエ教会 EGLISE SAINT - NIZIER は、プレスキルの真中にある。現在の建物は、ほとんどは15世紀に再建されたのもので、主にフランボイアン・ゴシック様式である。1840年から歴史的建造物として指定されている。

ソーヌ川の右岸のサン・ジャン教会は宗教会 CHANOINES を代表する教会として知られる。一方、ソーヌ川の左岸のプレスキルにあるサン・ニジエ教会は、市の権力 POUVOIE MUNICIPALE を象徴している。

外観は、とりわけ、遠くからも見うけられる、ふたつの尖った細く高い塔のシルエットが印象的である。左右非対称で、屋根色も異なっている。建築も15世紀と19世紀でかなり離れている。

現在の教会のある場所には、以前は、ローマの建物、おそらくシベール (キュベレー 古代中東の女神)と関係した寺 があったと想像されている。

内部の印象は、丸天井の高さと奇抜さ、支柱のフォーム、内部の明るさ、そして、特に建築全体に表された厳格さが特徴的である。

白大理石でできた主祭壇には、キリストと12人の従徒の像の装飾がある。本堂の奥には、ヴァチカンのバジリックの聖ピエールと聖ポールの像の複製、内陣には、木製の聖ニジエと聖サセルドの像がある。

サン・ニジエ教会は、キリスト教の歴史の上で非常に重要な教会の一つである。中でも、聖ポタン POTHIN と聖ブロンディン BLANDINE を含む、ローマの弾劾にあった、177年のリヨン市とゴールの48人のキリスト教の殉教者の記憶と深く関わっている。

サン・ニジエ教会は、5世紀の半ばに、司教の聖ウシェール SAINT EUCHER によって、キリスト教伝道者 SAINTS - APOTRES (ピエール PIERRE とポール PAUL) とこの48人の殉教者に捧げて建築された。

一説では、教会には、177年に殉教死した48人の遺物が奉納されていたという。キリスト教徒が悲観したため、殉死者の遺体が発見され、焼却され、その残りはバジュリカの祭壇の下に置かれたという話である。(また、遺体は焼かれ、ローヌ川に捨てられたという説もある。)

その後、6世紀まで、多くの司教たちがここに埋葬された。551年にリヨンで死亡した、アルルの大司教オレリアン ARCHIVEQUE D’ARLES AURELIEN などが知られる。

573年に、リヨンの司教、聖ニジエ SAINT NIZIER が埋葬された後に、多くの奇跡が起ったことから(盲人が目が見えるようになったり、病気が回復するなど)、この司教に対する崇拝が起こり、教会の名前にされたということである。

聖ニジエは、553年に、司教であった叔父の聖サセルドス SACERDOS を引き継いで、司教になった。活動的な司教で、巡礼者や貧しい人を受け入れるための最初のホスピスをリヨンに建造し、エクソシスト、除悪魔式を励行した。

8世紀には、他の教会同様に、ローヌ渓谷を北上してきたサラセン人 SARASSINS の侵略で破壊された。そして、シャールマーニュの治世下、9世紀初頭に、レイドラッド司教 LEIDRADE によって再建された。

1253年、プロテスタントの動きの開始者の一人とされるヴァルド PIERRE VALDO が、その豪華さにショックを受けて、教会に火をつけてしまう。現在の教会は、ブルジョワの協力のもとに、ルイ・ド・ヴィラー LOUIS DE VILLARS 大司教によって再建されたものである。

建築は、14世紀から段階ごとに進められ、主要な部分は15世紀になされ、さらに16世紀の終わりまで続いた。鐘楼は、1463年から建築が始まり、最後の南の鐘楼の完成は、1856年。

ルネッサンス時代は、シテのブルジョワと領事などのエリートの教会であったという。1461から1521年の間、執政官政治がここで執り行われた。

その後、新教徒一団の略奪(1562年のアルデ男爵 BARON DES ADRETS の率いる)や18世紀のフランス革命によリ大きな破壊を受け、多くの芸術作品や聖物が破壊され、紛失した。

それでも、クリプトの壁、司教聖サセルドの碑銘の破片(司教はここに埋葬されている)、16世紀の最初の聖母の像、など興味深いものが少しだけ残されている。

モザイクでは、奥殿にある聖ジャンと聖ポタンに取り囲まれたメール・ドウ・デュー LA MERE DE DIEU (ガスパー GASPARD PONCET によって描かれ、モザイク細工師、モラ MORA によってなされた)、本堂の壁にあるリヨンの48人の殉教者が知られている。

南外陣の祭壇背後の装飾付き衝立、エターブルにある1697年の 慈悲の聖母の像( ANTOINE DE COYSEVOX作 )、北外陣のエターブルにある19世紀の聖ポタンの像の彫刻( CHINARD 作)なども見物。

19世紀に、内部の家具が修復されている。1973年からは、教会全体の大規模な修復がなされた。

20世紀には、教会は庶民地区の中心となり、避難所、受入れ場所としても知られる。最近では、警察官の厳しい取り締まりに抵抗した娼婦(1975年)や、違法に滞在している外国人(2002年)などが占領する出来事の舞台となっている。

また、キリスト教の歴史などの聖書800冊を集めた図書館が、毎日一般公開されている。
PLACE ST NIZIER CURE 46, RUE EDOUARD HERRIOT 69002 LYON

月曜日 15-18h30 火曜〜金曜 8-19h45 土曜日 10-18h30 日曜日 9-12/16-20h


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サン・ニジエ教会の正面


ソーヌ川の対岸からの教会の眺め


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料理家 ポール ・ボキューズ

ポール・ボキューズは、フランスで最も有名で、世界でも最も著名な料理家の一人である。伝統的フランス料理の第一人者であるとともに、ヌーヴェル・キュイジーヌの先駆者でもある。

フランス料理の保護と発展のために、1970年、12人の三つ星レストランのシェフとともに、LA SOCIETE GRANDE CUISINE FRANCAISE を創立した。1987年からは、世界で最も威厳の高い国際料理コンクールの一つ、ボキューズ・ドール BOCUSE D’OR を設立している。

特に、その功績は、レストランの批評で知られるミシュラン・ガイド GUIDE MICHELIN で、1958年に最初の星、1962年に二つ星、1965年からは、ずっと三つ星に輝き続けていることからも想像できる。また、ゴー・エ・ミーヨー GAULT ET MILLAU からは、「世紀の料理家 CUISINIER DU SIECLE」、「ガストロのミーの父 PAPA DE LA GASTRONOMIE」と評されている。

フランスでは、1961年にフランス国家最優秀職人賞 MEILLEUR OUVRIER DU FRANCE を取得。また、1975年には、料理家として初めてのレジオン・ドヌール勲章 CHEVALIER DANS L’ORDRE DE LA LEGION D’HONNEUR も受賞する名誉も受けている。

現在は、リヨン市内とその郊外に、8つのレストランとブラッセリーを運営している実業家でもある。コローンジュ・オー・モンドール COLLONGES AU MONT D’OR にあるレストラン L’AUBERGE DU PONT DE COLLONGES が最も重要なものである。


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レストランの中庭に置かれたボキューズ氏の像

ポール・ボキューズは、1926年に、現在もレストランのあるコローンジュ・オー・モンドール(リヨンから12Km)の村で生まれた。17世紀にまでさかのぼる代々の料理家の家系だそうである。

父方の祖父は、レストラン BOCUSE を持ち、母方の祖父母 FRANCOISE ET FRANCOIS ROULIER は、そこから400mしか離れていないところでホテル L’HOTEL DU PONT を経営していたという。

1936年に、両親は、後にレストラン L’AUBERGE DU PONT DE COLLONGES となる母方のホテルに移住した。ポールは、一人息子で、幾つかのレストランでの修行の後、1958年、22歳の時にコローンジュの村に戻り、両親が経営していたレストランを手助い始め、その後を継ぐことになる。

最初の修行は、リヨンのブッションで知られるメール・ブラジエール EUGENIE BRAZIER のところで始めた。さらに、パリの8区のリッシャー GASTON RICHARD がシェフであった有名なレストラン LUCAS CARTON で働らき、そこの同僚となったトワグロ兄弟 PIERRE ET JEAN TROISGROS と親しくなる。

三人は、リオンの近くにあるヴィエンヌ VIENNE の町の有名なレストラン、ラ・ピラミッド LA PYRAMIDE で修業を続ける。ポールは、その精神的な父、偉大な師となるポワン氏 FERNAND POINT のところで8年間を過ごす。

1946年にレイモンド RAYMONDE DUVERT と結婚し、翌年に女子 FRANCOISE に授かる。フランソワーズは、リヨンの有名なチョコレート屋、ベルナッション BERNACHON の息子 JEAN-JEAQUE BERNACHON と結婚する。

1969年に、再婚相手のレイモンヌ RAYMONE との間に息子ジェローム JEROME が誕生する。ジェロームは、ボキューズ・グループのアメリカのレストランの指揮を任されている。また、ジェロームはその息子をポールと名付けたということである。

2006年、ジザ・ラルー ZVA-MARIE ZIZZA-LALU (三人目の妻 PATRICIA ZIZZA の娘)ともに LA SOCIETE DES PRODUITS PAUL BOCUSE を創立した。

日本やアメリカにも支店を出している。全ての活動を総括すると、従業員は約700人、年間の売り上げは、およそ50000000ユーロと予測されている。

ちなみに、1991年、パリの有名人のろう人形の展示されているグレヴァン博物館 MUSEE GREVIN に入った最初の料理家でもある。

2006年から、いろいろな食材が手に入るリヨンの台所であるレ・アールにはボキューズの名が付けられて HALLES DE LYON PAUL BOCUSE と名付けられている。また、コローンジュ・オー・モンドールの橋もボキューズの名前が付けられている。

今年で91歳。2005年には、心臓病で、三本の冠動脈バイパス手術を受け、2010年からは、パーキンソン病を患っている。


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有名な壁画「リヨネのフレスコ」に描かれたポール・ボキューズ



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レストラン・ポール・ボキューズ

リヨンで最も有名なレストラン。ここで食事をしなくては、リヨンのレストランを知っているとは言いかねるような著名な場所である。

リヨン市内ではなく、北へ約12kmくらい遡ったところにあるソーヌ川沿いのコローンジュ・オー・モン・ドール COLLONGES AU MONT D'OR の村にある。

レストランは、世界的に知られているミュシュランのレストラン・ガイド GUIDE MICHELIN で、1965年からずっと最高峰の三ツ星に輝き続け、世界最高の評価を受けている。

レストランの外見は、赤と緑を使った非常に派手な色で、遠くからもすぐに見分けられる。駐車場の入り口で、ボーイが待ち受けて、内部へ丁寧に導き入れてくれるのも普通のレストランとは違う。全てがセレモニー。

中庭には、ボキューズの像が置かれ、取り巻く壁には、ボキューズの歴史、料理に関係のあった人々、レストランの名物料理などが描かれている。

料理は、いろいろ有名なものがあるが、中でも、1975年に、料理家として初めて、当時のプレジデント、ヴァレリー・ジスカール・デスタン VALERY GISCARD D'ESTAINGからレジオン・ドヌール勲章 L'ORDRE NATIONAL DE LA LEGION L'HONNEUR を受賞し、エリゼ宮 LA PALSI DE L'ELYSEE に招かれた時に創作したというトリュフのスープ SOUPE AUX TRUFFES NOIRS( プレジデントの頭文字をとって、V.G.D. とも略される)が知られている。

ところで、このスープの発想のオリジンは、以前に食した二つのレシピ、アルデッシュ県の農家 CHEZ DES PAYSANS ARDECHOIS で食べたトリュフの薄切りで飾られた鳥と牛肉のスープと、アルザス PAUL HAEBERLIN EN ALSACE で供されたパイ側で覆われたトリュフにあったということである。


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駐車場から見たレストランの建物

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ガラス張りのレストランの入り口

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トリュフのスープ SOUPE AUX TRUFFES NOIRS
パイ皮は、蓋を見立てたとも、禿げていたプレジデントの頭を真似たとの言われる

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オマール海老のサラダ SALADE DE HOMARD A LA FRANCAISE

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フォアグラ FOIE GRAS DE CANARD

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鳩の料理 PIGEON EN FEUILLETE

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デザートのウフ・ア・ラ・ネージュ OEUF A LA NEIGE GRAND MERE BOCUSE

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壁に描かれたトリュフのスープとスズキのパイ包み焼き


40 QUAI DE LA PLAGE
69660 COLLONGES AU MONT D'OR
bocuse.fr


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プロフィール

織葉 ケイ

Author:織葉 ケイ
フランスのリヨン市に住んでいます。
ユネスコの世界遺産に指定されている歴史地区、世界的に著名なグルメの街、ヨーロッパ有数のテット・ドール公園の四季、そして、毎日の暮らしのことなど、お便りします。

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