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ジュネーブ 3


カフェ・デュ・ソントル CAFE DU CENTRE は、ジュネーヴの中心街にあるブラッセリー。広い歩行者天国となっている通りに面していて、夏場は木陰にテーブルや椅子が並べられて、開放感がある。

1933年から営業しているジュネーヴで最も古いブラッセリーの一つで、内部は、当時の古いアール・ヌーヴォーの装飾を残し、クラッシックで安心できる雰囲気を持つ。

カキなどの魚介類が有名。また、メニューはフランス料理とスイス料理で、全て現地で手作りしているのが自慢ということである。ヴェジタリアン料理やグルテンなしの料理なども可能で新しい風潮に追随している。ブランチ・メニューもある理、週末に家族で楽しむこともできる。

なお、ジュネーヴの名物料理は、フィレ・ド・ペルシュ FILETS DE PERCHES と呼ばれる魚とポテトのフライである。

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若者に人気のバーガー
HAMBURGER、 “ CAFE DU CENTRE ”

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FILETS DE PERCHES MEUNIERE
SAUCE TARTARE

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夏場の日替わりメニュー
TOMATES FARCIES AUX LEGUMES DE PROVENCE
GRATINEES AUX GRUYERE AVEC PESTO AU BASILIC

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テラスの並ぶ大通り

PLACE DU MOLARD
1204 GENEVE
(41) 22 311 85 86
www.cafeducentre.ch

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ジュネーヴ 2


ジュネーヴの歴史

スイスには、およそ15万年前から人類が住んでいた。紀元前2世紀頃からは、スイス中部の平原にケルト系のヘルヴェティイ族 HELVETII (スイスの古い名前であるヘルヴェティア HELVETIA はこの部族に由来するという)が、東部にはアルペン系のラエティ人が住んでいたとされる。

ジュネーヴの歴史の始まりは、約2000年前に遡るといわれる。元々はゴーロワ GAULE のケルト人、アロブロージュ人 ALLOBROGES の領地であった。

紀元前121年に、ローマ帝国の支配下に置かれ、紀元前58年に、初めてジュネーヴの名前が記載される。2世紀後半には、アルプスの峠に隣接する重要な立地条件から、ガリア・ナルボネンシス GALLIA NAEBONENSIS の北方の基地として発展し、やがて、ローマ市民権 CIVITAS を得るまでにまで昇格した。

4世紀に入り、ジュネーヴに初めてキリスト教会が建設され、後に、多くの修道院が建造され、キリスト教会は有力な領主となり、権力と富を増大してゆく。同時に、領主は勢力の拡大を図り戦争を繰り広げた。

5世紀、ゲルマン系のブルゴンド人 BURGONDES は、ローマ帝国に侵入し、休戦協定でローヌ河流域を譲渡され、最終的に、ローヌ河流域サヴォワ地方にブルゴンド王国を建てた。そして、476年にリヨンへ政権を移動するまでは、ジュネーヴを首都とした。

間もなく、534年に、フランク王国によってブルゴンド王国は滅ぼされ、その支配下に置かれた。ジュネーヴはジュネーヴ伯爵領 COMTE DE GENEVE、 PAGUE GENEVENSIS の中心地となった。

フランク王国は、5世紀から9世紀にかけてヨーロッパを支配した。メロヴィンジャン朝、カロランジャン朝を通じて長期間に及び支配体制を敷き、シャールマーニュ CHARLEMAGNE (カール大帝)の時代になると、西ヨーロッパの構図ができ始める。

9世紀、フランク王国の王の死後、領土は3分割され、841年のヴェルダン条約で、ジュネーヴを含むスイス西部は中フランク王国となった。やがて、中フランク王国の皇帝の死後は、3分割された領地の一部、上ブルゴンドとなり、さらに、下ブルゴンドと合併し、10世紀前半にアルル王国が成立する。

11世紀初期、初代サヴォワ伯爵ウンベルト・ビアンカマーノ UMBERTO BIANCAMANO によって、サヴォワ伯爵領(主に、現在のフランス領サヴォワ、オート・サヴォワ県にあたる領地)が形成された。サヴォワ家は欧州でも屈指の名家であった。

1032年、ブルゴンド王が死去。ジュネーヴと現在のスイスに相当する地域全域は、神聖ローマ帝国(962年の東フランク王国にルーツを持つ複合国家)の支配下に置かれ、一つにまとまった。

この年、サヴォワ家は、神聖ローマ帝国皇帝からサヴォワ伯爵を名乗ることを正式に認められた。また、司教は皇帝から王子 TITLE DE PRINCE の称号を与えられ、ジュネーヴの支配をジュネーヴ伯爵と分かち合う。1世紀に及ぶ抗争の後、1124年、セイセルの同意 ACCORDS DE SEYSSEL で、ジュネーヴ伯爵はシテの権利を放棄した。

1153年、ジュネーヴは、神聖ローマ帝国の「帝国自由都市」FREIE REICHSSTADT の地位(領主や司教による支配ではなく、皇帝直属の地位であり領主が存在せず、住民に一定範囲の自治が認められていた都市)を与えられた。

1265年、ジュネーヴの司教は、サヴォワ家に司教領代官の事務所を置き、ジュネーヴ市内の信徒のための民法と刑法上の正義を維持する責任者の任命権を与えた。こうして、サヴォワによるジュネーヴの支配が始まった。13世紀後半になると、サヴォワはカトリック教会との関係を強化し、権力を増大していった。1401年、ジュネーヴ伯爵 COMTE DE GENEVE の領地を支配した。

一方、13世紀、ジュネーヴの商人と職人たち COMMERCANTS ET ARTISANTS は、司教に対抗するため結束した。定期市 FOIRES DE GENEVEの成功は、市民にイタリヤの自由の空気と繁栄の見本をもたらし、この自治の動きを活性化した。1285年、市民はその代表者 PROCUREURS、SYNDICS を指名し、毎年、評議会 CONSEIL GENERAL は、新しい代表者 LES SYNDICS DE GENEVES を選出した。

1387年、シテでは、評議会 CONSEIL GENERAL が形成された。1526年、ベルン BERNE とフリボーグ FRIBOURG とのコンブージョワジーの条約 TRAITE DE COMBOURGEOISIE によって、二百人から構成された LE CONSEIL DES DEUX - CENTS が成立し、立法権が誕生した。

1416年、サヴォワのアメディ8世 AMEDEO VIII は、神聖ローマ帝国から公爵の位を与えられ、サヴォワ公国が設立され、ジュネーヴへの影響力を増大した。1451年に任名されたジュネーヴ司教は、アメディ8世の孫(わずか8歳であったという)であった。これらの出来事は、ジュネーヴ市民に反サヴォワの感情を植え付けていった。

1536年、サヴォワ家は、ジュネーヴ内部での親スイス連邦派との対立に敗れ、ジュネーヴを失う。さらに、イタリア戦争でフランス軍に敗れ、サヴォワ公国は、首都であったシャンベリーやスイス領内に領有していた領地を失った。サヴォワはトリノに首都を移し、イタリア統一を推進してゆく。

ジュネーヴの親サヴォワ派の崩壊とカトリック教会の権威の喪失は、ジュネーヴの独立とプロテスタントによる宗教改革へとつながっていった。宗教改革は、一説では、ジュネーヴにおける反サヴォワ運動によって生まれたとも解釈されている。

1536年、司教の権力は失われ、ジュネーヴは、プロテスタントの宗教改革を CONSEIL GENERAL によって承認し、正式にサヴォワの支配から独立し、ジュネーヴ共和国となった。正式に独立を承認されは、1618年に始まった30年に及ぶヨーロッパでの戦争の後に、1648年に締結されたヴェストファーレン条約 WESTFALISCHER FRIEDE による。

カルヴァンの到着以来、16世紀中頃には、フランスやイタリアから多くのプロテスタントが移住し、時計産業、銀行業などが盛んになり経済的発展をもたらした。さらに、1685年にナントの勅令が廃止された後は、フランスからやって来たプロテスタントの数はさらに増大していったという。

特に、1602年12月11、12日、市民がサヴォワの最後の侵略を追撃した日は、エスカラード ESCALADE (はしごの意味で、侵入時に利用された)の名で、毎年12月の第2週末にお祝いされるジュネーヴで最も賑やかな祝日となっている。この夜、ロワイヨームおばさん MERE ROYAUME がサヴォワ兵に野菜スープをぶちまけて軍隊を撃退したという秘話が語り継がれている。

1707年、一般市民による議会のメンバーの選出方法の改善要求が却下されたことから、市内で混乱が引き起こされた。政府による弾圧が強化され、主導者の一人であった弁護士のファティオ PIERRE FATIO は射殺された。

1730年代は、議会の承認無くして税金が増加されたことで、混乱はさらに繰り返えされるが、フランスの仲介で鎮静された。1762年には、エミール EMILE とルソー ROUSSEAU の社会契約 CONTRAT SOCIAL の有罪判決によって、抗議が再度引き起こされ、一般市民の不満が増大していった。

1792年、議会はすべてのジュネーヴ市民の均等な権利を認めた。新しい憲法が制定された。

1798年、フランス軍がジュネーヴに侵入。ナポレオンの支配下のフランスに併合され、新しくレマン県が作られ、ジュネーヴは、その県庁所在地となった。こうして、一時期、フランスに習った中央集権国家が設立され、市民と宗教が分離され、民法に基づく全く新しい制度による統治を経験する。

1813年ナポレオンの敗退後、ジュネーヴ共和国は再建されるが、1814年にスイス連邦軍によって占領される。やがて、ウィーン会議において、1815年5月19日、ジュネーヴ州はスイス連邦の第22州(現在26州)として、「スイス誓約者同胞」、「スイス連邦」の一員となった。

ところで、スイス連邦の原型は、1291年、領域の支配者ハウスブルグ家に対して、ウーリ、シュヴィーツ、ウインターヴェルデンの3州が、ハンスブルグ家を含む封建諸侯の支配に抵抗し、自治独立を維持するために結んだ「永久盟約」(リュトリの誓い)であるとされている。14から15世紀にかけて連邦制は発展し、拡大していった。

なお、ジュネーヴ州 REPUBLIQUE ET CANTON DE GENEVE は、人口約49万人。45の自治体から構成されている。公用語はフランス語。「スイス連邦」26州の中でも政府や議会の権限がつよいことで知られている。また、統計によると、全労働者の4分の1がフランスからの越境労働者ということである。

第一次世界大戦の後、1919年、パリ講和会議でスイスの大統領、アドールによって、世界初の平和維持機構「国際連盟」の本部として、中立国スイスのジュネーヴが提案された。このことで、世界的に注目される国際的な使命を持つ都市となった。また、第二次世界大戦後は、本部はニューヨークへ移転するが、国連欧州本部が残されている。

現在、37の国際機関、179カ国の代表部、32000人のスタッフがジュネーヴを拠点として活動しているという。毎年、開催される会合は3000以上とされ、今でも500人以上のジャーナリストの活動の場となっている。


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ジュネーブ


ジュネーブ GENEVE は、スイス連邦の一つ、ジュネーヴ州の州都。標高約375m、レマン湖 LAC LEMAN の南西に位置し、ここからフランスへローヌ河が流れ出て地中海まで続いている。人口約20万人で、チューニッヒ ZURICH に次ぐスイス第二の大きな都市。

ジュネーヴは、典型的な西岸海洋性気候、温帯に属していることで知られる。夏はさほど高温にならず、冬は緯度の高さに対して気温が高めという特徴があり、避寒地としても知られる。レマン湖周辺には、高級ブティックや豪華なホテルやレストランがずらりと立ち並ぶ。実際、世界でも、生活の質が高く、優雅なイメージを持つ街である。

また、スイスの銀行は、17世紀にまで遡る歴史を持ち、チューニッヒ に次ぐ金融業の街としても知られる。特に、ジュネーヴには、BANQUE PRIVEE EDMOND DE ROTHSCHILD、 LOMBAR DODIER 、UNION BANCAIRE PRIVEE、 PICTET & CIE などのプライベート・バンクの本店が集中して、私的資産管理の観点から世界で最も重要な所とされている。

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大きなホテルの並ぶ湖畔の眺め

同時に、ジュネーヴは、1864年の赤十字国際委員会 ICRCの発足をはじめとして、国際連合欧州本部 UNOG 、世界気象機関 WMO 、世界保健機関 WHO 、 、世界貿易機関 WTO など、最も多くの国際機関の本部が置かれている所である。国際会議などの開催も多く、「世界で最も小さい国際都市」 GLOBAL CITY とも呼ばれて、世界各国からの人々で賑わう平和の街のイメージがある。

ちなみに、スイスの公用語は、ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマッシュ語 RUMANTSCH (レト・ロマンス語群)の4つからなり、各地域で主言語が異なっている。ジュネーヴではフランス語が主であるが、これに加えて、英語もかなり使われている。

5世紀以降のスイスでは、ゲルマン系部族のアレマン人 ALEMENNE、ブルグント人、非ケルト系部族のラエティア人 RAETIA 、ランゴバルド人(イタリア半島の半分を支配したゲルマン系部族)の4民族が共存するようになり、こうして、それぞれ、ドイツ語、フランス語、ロマンシュ語 RUMANTSCH 、イタリア語が用いられる基盤が作られたとされている。

例えば、3世紀にゲルマン系のアレマン人がスイス平原に侵入し、4世紀以降、さらに西へ移動した。中部・東スイスはアレマン人に支配され、彼らの言語が現在の方言となって残っている。

一方、ジュネーヴは、5世紀にローマ帝国が後退し始めると、ゲルマン系のブルグント族がサヴォワ地域を制圧し、ガロ・ローマン人を支配下に置いた。この時、それまでラテン語によって押さえつけられていた、ガロ・ローマン人によって、地元で使われていたケルト語の方言が地方語へと発展し、やがてフランス語へ置き換えられていったようだ。

ジュネーヴ GENEVE、 (ラテン語でGENOVA) の名は、ローマ支配下の時代に、シーザー CALUS JULIUS CAESAR によって、与えられたとされる。おそらくイタリアの GENES、 GENOVA、レマン湖やローヌ河の流出口のような、『水脈に近い場所』の意味合いを暗示させるイタリア北部のリグリア人の用語と同じ語源と推察されている。さらに、インド・ヨーロッパの言語の一つである ILLYRIENNES 言葉では、GENUSUS は『大川』を意味しているようだ。

一方、ローマ以前にはケルトの部族の領地であったことから、GENEVA は、ゴールの用語で『河口』を意味する接頭語の GENE- に由来しているとも推定されている。
 

ジュネーヴの旧市街地

丘上にあるジュネーヴの旧市街地には、12から13世紀に建造されたサン・ピエール大聖堂がある。はじめはロマネスク様式で建造され、15世紀にゴッシック様式で改造された。さらに、正面は、円柱に支えられたネオ・クラッシック様式。

ジュネーヴは、中世の宗教改革の時期には、プロテスタントの活動の中心となった場所であった。サン・ピエール大聖堂は、宗教改革の先導者の一人、カルヴァン JEAN CALVIN の本拠となった寺院として知られる。

カルヴァンらは、1536年に、カトリックであったサヴォワ公国から、ジュネーヴ共和国として独立し、共和政治を執り行った。このようなことから、ジュネーヴは『プロテスタントのローマ』とも呼ばれていた。正式に独立が認められたのは、宗教戦争の終結によって結ばれた1648年のヴェストファーレン条約 WESTFALISCHER FRIEDE 後である。

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サン・ピエール大聖堂の正面

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内部のステンドグラス

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オルガン

ところで、当時、ヨーロッパの多くの国々からプロテスタントが迫害を逃れてジュネーヴの集まってきたと言われる。フランスからもプロテスタントであったユグノーの多くの時計職人が迫害を逃れてジュネーヴに移住してきたことが、後に、時計の製造がジュネーヴの産業として発展してゆく基になったいうことである。なお、18世紀の啓蒙主義の思想家として名高いルソー JEAN JACQUE ROUSSEAU は、ジュネーヴの時計職人の家に生まれている。

やがて、ウイーン会議(1814から1815年)において、永世中立国、スイス連邦として承認された。このようなことから、各国から亡命した人々が集まった所でもあったようだ。ロシア人のレーニン VLADIMIR ILITCH LENINE やイタリア人のムッソリーニ BENITO MUSSOLINI もその中の一人であったとされる。

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市内観光のミニ・トレイン


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レマン湖


レマン湖 LAC LEMAN は、標高372m、フランスとスイスにまたがって広がる湖。東から西へ伸びた三日月型をしている。スイスの西側、フランスのオート・サヴォワ県の北側に位置している。ちなみに、1564年のローザンヌ条約 TRAITE DE LAUSSANNE によって、両国の堺線は湖の真中あたりに定められているようだ。

レマン湖は、その形成過程の違いから、大湖と小湖に区別されてもいる。大湖は地殻の収縮運動によって形成されたと想定されている。一方、小湖(ジュネーヴからイヴォワールの間)は氷河期の終わり頃、約15000年前にアルプスのローヌ氷河が収縮した際に削られてできたようだ。

ヨーロッパで最も大きい湖の一つ。長さが約73km、幅が約14km、面積は約580km2、一番深いところは大湖にあり、深さが約300m。湖の岸周は約200km。今では、そのほとんどが開拓され、自然のままに残されているのは約3%ということである。また、スイス領内では、現在でも岸辺が個人の所有になっている所も存在するようである。また、湖には、シヨン島 ILE DE CHILLON など、大小7つの小島が浮ぶ。

一説では、湖の名前は、インド・ヨーロッパ語に起源をもち、LEMAN は LAC を意味しているそうだ。 この呼び名が古くから使用されてきたが、これによると、LAC LEMAN は『湖、湖』の意味となり重複した言葉になっている。

起源1世紀頃は、ギリシャ語で LEMANE LIMNE と呼ばれた。これが、ローマ時代に引き継がれ、 LACUS LEMANUS となった後、16世紀には LEMAN、 LAC LEMANNE 、18世紀になると LEMAN などの変化を経て、19世紀にレマン湖 LAC LEMAN の形を取り定着した。

16世紀以降、ジュネーヴが国際的に知られるようなってからは、ジュネーヴ周辺では、ジュネーヴ湖 LAC DE GENEVE の名前でも呼ばれるようになった。現在でも、イタリヤ語、ドイツ語、英語圏ではジュネーヴ湖の呼称が一般的であるようだ。

なお、レマン湖周辺は、この地域独特な気候、ミクロクリマを形成していて年間を通して気温変動が少なく温暖である。例えば、レマン湖の北側、スイス領の標高456mに位置する LAUSANNE PULLY では、冬でも平均気温が0度を下がることは稀で、夏には平均気温が20度前後、最高気温でも25度前後である。

特に、レマン湖のシンボルは、高さが140mに及ぶという噴水、ジェ・ドー JET D’ EAU。1886年に最初の噴水が建造された時は、高さは30mであったそうだ。その後、1951年に新しい噴水が現在のところへ作られたという。この辺りから湖を巡る観光船も運行されている。船から眺める噴水も素晴らしい。

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レマン湖の大噴水

また、スイスは、時計の生産地としても名高いが、レマン湖のほとりのイギリス公園内に大きな花時計 HORLOGE FLEURIE がある。また、19世紀からスイスの時計作りのリーダーとして名をはせて来た老舗の高級時計ブランド、パテック・フィリップ PATEK PHILIPPE の博物館も興味深い。さらに、毎年4月には、高級時計メーカーの集まる国際高級時計見本市が開催されている。

レマン湖の湖岸周辺にある多くの有名な街、スイス領のジュネーヴやローザンヌ、フランス領のエヴィアン・レ・バンやイヴォンヌなどには港があり、お互いが湖船で結ばれていルノが特徴的、水上で行き来が可能で大変便利である。また、途中、船上から眺める周辺のアルプスの山々の景色が素晴らしい。

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湖の眺め

レマン湖の汽船会社 CGN
COMPAGNIE GENERALE DE NAVIGATION SUR LE LAC LEMAN

1873年に開業の古い会社。8艘の大型外輪船(5艘は蒸気船)と8のモーター船を所有しているそうだ。地元の交通機関としての定期運行便、夏場には旅行客用のランチ、ディナー・クルーズなどを多数企画しているので、機会があれば利用したい。
www.cgn.ch


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イヴォワール


オート・サヴォワ県 HAUTE - SAVOIE のイヴォワール UVOIRE は、レマン湖のほとりにある、7世紀にわたる歴史を持つ中世の村。人口約1000人。木製のバルコンのある石造の家が並び、1時間もあれば一周できるくらいに小さい村である。

フランスの最も美しい村 PLUS BEAUX VILLAGES DE FRANCE の一つに選ばれていて、「レマン湖の宝石」 LE PARLE DU LAC とも賞されている。エヴィアン・レ・バン EVIAN- LES - BAINS から25km、ジュネーヴから25km。

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村は、小さくてこじんまりとしているが非常に活気がある。多くの芸術家の店やレストランが小道の両側に立ち並んでいる。家々に飾られたジェラニウムやフジなどの色とりどりの花々が美しい。夏場は、どこもかしこも観光客で埋まっている。

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村の名前は、13世紀にEVYRE として記載されている。その後、YVERY、 AQUARIA (水のある場所のような意味)、BECCA D’ EVERE、やがて、EVAIRE (湿地のような意味、旧フランス語で湿気を意味する EVEUX の派生語)などに変化して、YVOIRE の形をとなったようだ。また、地域の方言では、 EVERE と記される。

レマン湖に面した小さなマリーナがあり、リゾート地の雰囲気がある。向いは、スイス領のニオン NYON があり、この間を定期船 CGN CAMPAGNIE GENERALE DE NAVIGATION (ローザンヌ、ジュネーヴ、エヴィアンなどへも連絡)が運行しているので、スイスから船で訪れることもできる。

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11世紀のサン・パンクラス SAINT PANCRACE 教会は、多くの歴史を持っている。何度も改造が重ねられてきた。鐘楼は、1856年に建造。膨らみのある丸屋根のついた特徴的なサヴォワとピエモンの宗教建築とされている。上に金製の鶏が乗っている。

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村のメイン入り口のロヴォレ門 PORTE DE ROVOREE は、PORT DE THONON とも呼ばれている。ネルニエ門 PORT DE NERNIER は、PORTE DE GENEVE とも呼ぶ。14世紀の建造で、1943年から歴史的建造物に指定されている。ところどこらにのコアされた中世の建造物が村の雰囲気とよくマッチしている。

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村の先端には、レマン湖に突き出すように建てられた城 CHATEAU FORE D’ YVOIRE が残され、見どころの一つとなっている。城は、サヴォワ伯爵アメデ5世 COMTE AMEDEE V DE SAVOIE によって、昔の要塞跡に、14世紀に建造されたもの。レマン湖の尖頭に位置し、湖の船舶を監視する重要な役割があったようだ。

16世紀に、戦いで火災に合い、一部が損傷したが、17世紀から所有しているサヴォワの一族 BOUVIER D’YVOIRE によって、20世紀になって再建された。

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シャモニー 3


シャモニーのレストラン、ジョセフィンヌ JOSEPHINE は、市の中心を流れるアルヴェ川 L’ ARVE のすぐ近くで、道路の一角に位置する立地条件を生かした広い正面が印象的な建物。

骨董品に興味が深いという所有者によって、店内は1920年代の古いビストロの雰囲気をイメージして装飾されている。古いアール・ヌーヴァーの歴史を彷彿とさせる、オシャレな雰囲気のブラッセリーである。

ヴァカンスには家族連れでも気軽に利用できる。場所柄、スタッフの対応は親切で、英語も流暢に話す。

カキや魚介類はもちろんであるが、オニオン・スープ、フォワグラ、エスカルゴなど伝統的なフランス料理とタルティフレット TARTIFLETTE やフォンデュ・サヴォイヤード FONDUE SAVOYARDE のような郷土料理が食せる。ヴェジタリアン用の料理も用意されている。また、登山家などの多い場所柄か、朝早く(7時半から8時頃)から営業しているのも便利。

メニューの名前がシャモニーの特徴を盛り込んでいてユニーク。レギュイー L’ AIGUILLE やラ・メール・ド・グラス LA MER DE GLACE などと名付けられた海の幸の盛り合わせや、登山者を意味するラ・ランドナー LA RANDONNEUR などという名のメニューも並んでいる。


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本日のメニュー ロースト・チキンのポレンタ添え

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シャルキュトリーと3つのフロマージュ入りの小箱の盛り合わせ
BOITE CHAUDE DES ALPES

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タルティフレット

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名物のシャンピニョンのデザート
LA FABULEUX CHAMPIGNON AUX MYRTILLES

76 AVENUE MICHEL CROZ
74400 CHAMONIX MONT BLANC
(33) 4 50 53 18 98
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シャモニー 2


氷河メール・ド・グラース

シャモニーCHAMONIX のメール・ド・グラース MER DE GLACE は、アルプス山脈のモン・ブラン北壁に位置し、標高2400mの地点で3本の氷河が合流したフランスで最大の氷河である。

以前は、この氷河をシャモニーの街からも見ることができたということであるが、現在では後退してしまい、街からは見ることはできない。そのため、氷河を眼前に見るためには、シャモニーから出ているモンタンヴェールの登山鉄道 CHEMIN DE FER DU MONTENVERS で、標高1913mにあるオテル・ド・モンタヴェール駅まで登って行く。

モンタンヴェール の登山鉄道は、1909年に開通された。フランスの国鉄駅 SNCF の近くに別の独自の駅をもつている。初めは蒸気機関車であったようだが、現在は電化されている。登山鉄道は、延長約5km、20分の工程の急傾斜を登る。緑の木々の間を走る車体の赤色が自然の中で鮮やかである。

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途中で観られる周囲のアルプスの山々 MER DE GLACE、 AIGUILLE DU PETIT DRU、 GRANDES JORASSES、 AIGUILLE DES GRANDS CHARMOZ の景色なども素晴らしい。

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電車を降りると、駅に隣接する展望台から氷河の全貌が見渡せる。また、もっと身近で氷河を見学したければ、ケーブル・カーで氷河の近くまで降りて、さらに、500段あるという階段と小道(かなりの距離がある)を通り抜けて氷河の洞窟を訪れることもできる。

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展望台からのメール・ド・グラース眺め

ライトアップされた洞窟の中は、幻想的で、感動的である。帰りの上り階段がかなり苦労であるが見学の価値あり。

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メール・ド・グラース氷河の洞窟 内部

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メール・ド・グラース氷河の洞窟の入り口

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シャモニー


シャモニー CHAMONIX は、シャモニー・モン・ブラン CHAMONIX - MONT - BLANCとも呼ばれる渓谷の村。フランスの東端で、スイスとイタリアと国境を分かつオート・サヴォワー県 HAUTE - SAVOIE にあり、人口約8600人。モン・ブラン山群の麓に位置し、最低標高約でも約1000mで、コミューンは、4810mの高さを誇るアルプスの最高峰モン・ブランを包括し、西ヨーロッパで最も高緯度に位置するコミューンの一つとされている。

山岳スポーツの中心地として、世界中から訪れる登山やスキー客でいつも賑わい、コスモポリタンな雰囲気がある。レストランや大きなホテルも多い。リヨンからは、オート・ルートで2時間半。

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街の中心地の教会

シャモニーの名前は、1091年に、COMPUM MUNITUM と記載されている。中世になって、CHAMONIS、 CHAMOUNY、 CHAMONY、 さらに、CHAMOUNIなどの変化を経て、1793年から CHAMONIX 、19世紀になると CHAMOUNY 、1921年からはCHAMONIX - MONT - BLANC と呼ばれていた。地域の方言では、CHA は荒野のような意味、MONIS は山のような意味があるようだが、確かな名前の由来は定かではない。また、語尾のXは発音しない。

その気候の厳しさなどから、シャモニーの地域には長く人類は住んでいなかったようだ。領地は、紀元前5世頃に、最初の住民のケルト人が住み着き、紀元前121年にローマ帝国に包括され、中世のブルグルド族の侵略を経て、ジュネーブ伯爵の所有となった。

1091年に、ジュネーヴの伯爵 AYMON 1er は、この渓谷をピエモンの修道院 ABBAYE SAINT MICHEL DE LA CLUSE に寄贈し、修道僧はアルヴェ川 L ‘ ARVE の左岸に修道院 PRIEURE DE CHAMONIX を設けた。こうして、シャモニーの街の歴史が始まった。

1401年、伯爵領はサヴォワのアメデ8世 AMEDEE VIII に売却され、サヴォワ王国(のちのサルデニア王国)の一部となり、1860年に正式にフランス領となった。

地域住民の生活は楽ではなかったが、1741年に2人のイギリス人 WILLIAM WINDHAM 、RICHARD POCOCKE がこの渓谷を訪れ、氷河の探検をし、メール・ド・グラス MER DE GLACE と名付けたことがきっかけで観光客の注目を集めるようになり、発展していったと言われる。

さらに、1786年に、2人のシャモニー人 JACQUES BAIMAT、 MICHEL PACCARD によって、西ヨーロッパの最高峰であるモン・ブラン(4808m)が初めて登頂されてからは、「登山家の聖地」と呼ばれている。また、1924年の第一回冬季オリンピックの開催地でもあり、「冬季オリンピック発祥の地」と称されている。

モン・ブランへの登山であるが、スポーツが苦手な人は、シャモニーから世界で最高位にあるというケーブル・カーで、標高3777mにあるエギュ・デュ・ミディ AIGUILLE DU MIDI に行き、されに、岩を突き抜けて建造されたエレヴェーターで3842mの展望台へ登ることができるようになっている。

ただ、山の天気は変わりやすく、ケーブル・カーは、風の強い日や視界の悪い日は、急に運休となることもある、また、頂上は夏でも麗華になり寒いので服装にも要注意。

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ラ・クルーザ 2


ラ・クルーザのレストラン

ラ・フェルム LA FERME は、丘の中腹にあるホテル・レストラン。高台にある広いテラスからの村の眺めも良い。厚い木製のメニューがユニーク。

シャキュテリー CHARCUTERIE DE PAYS 、ラクレット RACLETTE 、タルティフレット TARTIFLETTE 、クロゼットのグラティン GRATIN DE CROZETS 、フォンデュ・サヴォイヤード FONDUE SAVOYARDE など、地域の名物料理などが食べられる地元の人たちのオススメのレストラン。

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丘の上にある ラ・フェルム

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心地よい山風の吹き抜けるテラスの様子

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メニューがユニーク

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伝統的なラクレット 
大きなフロマージュを上部から温めて
とろけた部分を少しずつ削ぎ取ってゆく

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ポテトとシャキュテリーなどの付け合わせも豊富 

HOTEL RESTAURANT LA FERME
1078 ROUTE DU COL DES ARAVIS
74220 LA CLUSAZ
(33) 4 50 02 50 50


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ラ・クルーザ


ラ・クルーザ LA CLUSAZ は、標高約1000m、人口1700人のオート・サヴォワー県 HAUTE - SAVOIE の山村。多くのシャレに埋まる丘が取り囲むリゾート地。古くから、冬季オリンピックのチャンピオンなど、多くの有名なスキーヤーを生んだ地として知られている。リヨンからオート・ルートで約2時間。アヌシーからは、東へ約30km、車で約45分の距離である。

ラ・クルーザの名前は、CLUSE (ラテン語の CLUDO )が起源で、「閉ざされた渓谷」 UNE VALLEE FERMEE のような意味合いを持ち、周りを山に囲まれたいる村の地形がよく現わされている。

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最初のスキー場は、1909年に開かれたが、繁栄し始めたのは、1956年にボールガー BEAUREGARD のケーブル・カー TELECABINE が建造された後のようである。

ラ・クルーザには、標高1100mから2600mの5つの群山にわたり、49のリフトと85のスキーのコースが125kmの距離にわたり広がっている。

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ラ・クルーザの周辺の景観

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湖畔の散歩などもできる

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放牧も盛ん

ボールガー BEAUREGARD のケーブル・カーは、頂上 PLATEAU DE BEAUREGARD にたどり着くと、360度の素晴らしい山々の景観が満喫できる。ここから、さらに、4つリフトが設置されていて、初心者を含め十分スキーを楽しめる。

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また、いくつかのケーブル・カーは夏場にも運行されていて、ここを起点として、山の散策コースが設置されている。その他には、夏場のソリ、サイクリング、VTT、スケート場など、子供から大人までの各種のアクティヴィティが用意されている。途中、興味があればフロマージュを製造している地元の農場なども見学できる。


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プロフィール

織葉 ケイ

Author:織葉 ケイ
フランスのリヨン市に住んでいます。
ユネスコの世界遺産に指定されている歴史地区、世界的に著名なグルメの街、ヨーロッパ有数のテット・ドール公園の四季、そして、毎日の暮らしのことなど、お便りします。

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