壁画 1

リヨンは、市内や郊外の至る所で見受けられる大きな壁画で知られている。全部を合わせると、100以上になり、フランスの壁画アーティストの中心地である。また、ベルリンとともにヨーロッパの壁画のキャピタル、世界でも5本指に入る壁画の街として評価されている。

これらの壁画を描いているのは、主に、シテクレアシオン CITECREATION (元は CITE DE LA CREATION ) と呼ばれるウーラン OULLINS (リヨン市の南西の街)に在る壁画のスペシャリストの会社による作品である。また、画家たちの集団、ミュラール MUR'ART による壁画もある。

シテクレアシオンは、1978年に創設された壁画の世界的リーダー会社で、フランスでの最初の壁画の学校 L'ECOLE EMILLE COHL でもある。外国(ケベック、ベルリン、モスクワ、エルサレムなど)に5の支店を持ち、最近では、上海での3年間にわたる3000人の学生の教育が計画されているという。

2007年には、フランスの「生きている国家遺産の会社」ENTREPRISE DU PATRIMOINE VIVANT のラベルを受賞した。

活動範囲は、フランスの他の街、マルセイユやパリへ広がっている。国外では、日本、中国、カナダ、イタリア、スペイン、ポルトガル、ドイツ、ソヴィエト、エルサレム、メキシコ、オーストリア、スェーデンなど24カ国以上で活動し、600以上の壁画を手がけているという。

これらのフレスコ、だまし絵、デッサンは、それぞれの街、地区、建物を魔法のように素晴らしいものに変えてしまう。また、見かけが美しくなるだけでない。その地域の歴史をたどり、そこに息づいてきた文化を語り、その地で活躍してきた人物に敬意を表して描かれているこれらの壁画は、カルティエの変遷や特徴を知る上でも興味深く、教育的な要素も持ち合わせている。

リヨンのガイドをしてくれる大きな挿絵付きの書物のような壁画。代表的な壁画をたどりながら、異なったカルティエの歴史・文化に触れてみたい。リヨンのアイデンティティー、シンボル、価値、誇りを見出すことができる。

リヨン市内と郊外にあるもので最も興味深いものには、4区にある「絹織工の壁」LE MUR DES CANUTS 、1区にある「リヨン人の大壁画」LA FRESQUE DES LYONNAIS と「シテの図書館」LA BIBLIOTHEQUE DE LA CITE 、7区にある「シネマの壁」LE MUR DU CINEMA と「ジェルランのフレスコ」LA FRESQUE DE GERLAND 、さらに「リヨン終着点」LYON TERMINAL 、8区にある「トニー・ガルニエの都市美術館」LE MUSEE URBAIN TONY GARNIER 、3区にある「街へのヴォイヤージュへの招待」INVITATIONS AU VOYAGE EN VILLE と「モントルークのフレスコ」LA FRESQUE DE MONTLUC 、5区にある「サン・ジュストのバジリック」LES BASILIQUES DE SAINT JUST と「クール・デ・ロージュ」LA COUR DES LOGES などがある。


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ニオンス

二オンス NYONS の村は、ローヌ・アルプス地方のドローム県 DROME の南端で、ヴァランス VALENCE から100km、オーランジュ ORANGE から40km(A7で行くならここの出口で下りる)の位置にある。「ドローム・プロヴァンスの中心」 COEUR DE LA DROME PROVANCALE である。D94かD538で行く。

人口約7000人、平均標高270m。ローヌ河支流のエッグ川 EYGUES の畔に位置し、回りを小高い丘に囲まれている盆地。また、晴天の日数がニースに匹敵するほど多く、夏には程よい風が村を吹き抜け、冬は地域特有のミストラルから守られている温暖な気候で、古くから「小さなニース」 LE PETIT NICE とも呼ばれている。

村の歴史はかなり古い。考古学の発掘によると、ここに民族が住み始めたのは、紀元前3500年とか。フランスの多くの村と同様に、次々とギリシャ人、ローマ人、ゲルマン人(5世紀)、サラセン人(8から10世紀)の支配を受けてきた。

封建制度の時代には、ゲルマン帝国支配下にあったブルゴーニュ王国 ROYAUME DU BOURGOGNE 、地域のメヴーイヨン MEVOUILLON とモントーバン MONTAUBAN 男爵を経て、14世紀に、ドーファン・デュ・ヴィエノワ DAUPHINS DU VIENNOIS の権力下になる。1349年、ドーファンのプロヴァンス領は売られ、フランス領となった。

二オンスの名前は、ケルト語の NOVIOMAGUE (成り市場というような意味)から来ているようだ。10世紀の文書には、二オムス NIOMES の名で記されている。

何よりも、二オンスはオリーヴの産地として良く知られている。フランスのオリーヴ生産地の一つで、ヨーロッパで最初にオリーヴ栽培地の原産地表示保護 AOP に認定された所である。また、ワインの産地としても有名で、コート・ドュ・ローヌ COTES DU RHONE の原産地管理証明 AOC に承認されてもいる。

ニョンスの旧市街地は、モーパス MAUPAS と呼ばれる岩の尾根上に広がっている。昔の封建領主の治めていた要塞地区、グラン・フォー GRANDS FORTS と、プティ・フォーPETITS FORTS の麓である。

アーケード広場 LA PLACE DES ARCADES は特に素晴らしい。旧市街地の西側にある防壁に沿って続くグラン・フォー通り LA RUE DES GRANDS FORTS は、ほとんど完全に屋根で覆われてい見応えがある。プティ・フォー通り LA RUE DES PETITS FORTS には、城壁の廃墟、ラ・ロンド通り LA RONDE の抜け道や11世紀の天守閣の廃墟(ラ・シャトー・ヴューの4番目の塔)がある。

この他にも旧市街地に残る歴史的建造物には素晴らしいものがある。ランドンヌ塔 LA TOUR RANDONNE やロマン橋 LE PONT ROMAN (1925年)などは是非訪れてみたい。

ランドンヌの塔 LA TOUR RANDONNE は、1280年に、モントバンの男爵夫人 LA BARONNE DE MONTAUBAN によってニオンスの街を見下ろす高い岩上に建造された。この中世の建物は、城の天守閣として、また、軍隊の牢としても使われたそうだ。

その後、ニオンスの神父であったフランクー FRANCOU によって買い取られ、シャペルに改造された。この時、頂上にアーケードから成る三階建てのピラミッドが付け加えられ、この上に3、5m高さの聖母マリアの像が置かれた。高台から村の平穏と平安を監視している。

1863年に、ノートル・ダム・ド・ボン・スコール NOTRE DAMA DE BON SECOURS と名付けられ、ヴァランスの司教によって盛大に開館式が行われた。毎年8月15日に、これらの歴史的出来事を記念してフェスティヴァルが開かれる。

古い封建君主の城であったシャトー・ビュー LE CHATEAU VIEUX は、村を防御するために、8世紀に、モーパスの岩上、サン・ヴァンサンの修道院 MONASTERE SAINT VINCENT を保護していた要塞地区の最南端に建造された。その壁の高さと塔の重厚さが印象的である。11世紀に、サラセン様式の塔が追加され大きな館に拡大された。現在はプライヴェートの住居となっている。

サン・ヴァンサン教会 L’EGLISE SAINT VINCENT は、10世紀からその存在が記載されているが、宗教戦争などで再三にわたって破壊を繰り返し、現在の教会は1614年に再建されたものである。教会の一番古い部分の鐘楼は、村の入り口の一つの見張り台であった。

ロマネスク様式の大きな中央の内陣を10の小聖堂が取り囲んでいる。内部には、17世紀半ばの数多くの注目すべき絵画が保存されている( JEAN ET GUY FRANCOIS 、GUILLAUME PERRIER、 PASCAL JOUYENET など14以上が歴史的建造物に指定)ことで知られる。

狭い通りに残る小さな噴水 LA FONTAINE NYONSAISE MONUMENTALE(1871年)、LA FONTAINE DE LA POUMO や洗い場などもよく保存されている。

ロマン橋は、エッグ川に架かる典型的なロマネスク様式の橋である。その典型的スタイルはフランスでも2番目に列されている。ニオンスが非常に繁栄した14世紀、1341年から1409年にかけて建造された。灰色の石造りで、43mの長い一本のアーチから成り、中央の一番高いところは、18mもの高さがある。


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観光案内所のポスター

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旧市街地を囲む塔の一つ

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旧市街地への入り口の一つ

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アーケードのある広場に並ぶカフェ

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サン・ヴァンサン教会 横からの眺め 鐘楼が見える

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教会の近くの広場のオリーヴの樹

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村の古い噴水

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ランドンヌの塔を遠くから見た様子

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ピラミッドの頂上に置かれたマドンナの後ろ姿

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城壁に沿って続く覆いのあるパッサージュ

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封建君主の城シャトー・ヴュー


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ブラッセリー・デ・コンフリューアンス

ブラッセリー・デ・コンフリューアンス BRASSERIE DES CONFLUENCES はソーヌ川とローヌ河の合流地点、コンフリューアンス博物館の一階にある。

博物館の超現代的な建築と完璧にマッツしたガラスとイノックスとコンクリートからなる、この場所に遜色のないモダンな造りのレストランである。

フランスの国家最優秀職人賞 MEILLEUR OUVRIER DE FRANCE を受賞しているリヨン市のシェフ、ピニョール氏 JEAN-PAUL PIGNOL とラソーセ氏 GUY LASSAUSAIE の二人がここを取り仕切っている。ラソーセ氏は、リヨン市の北にある CHASSELAY の村にミシュラン・ガイドで二つ星に輝くレストランも運営している。

洗練された伝統的なフランス料理を出している。120席。専用のパーキングもあるのも便利である。

火曜から土曜日 12h00 から14h00 夜は19h30 から21h30.
日曜日は12h00 から14h00
www.museedesconfluences-restauration.com/brasserie-des-confluences


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ガラス張りのモダンな外見

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突き出しのパテ PATES EN CROUTE

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オマールとエビのリゾット RISOTTO HOMARD ET GAMBAS

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牛肉の煮込み PALERON DE BOEUF CONFIT 12HEURES ET FOIE GRAS

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仔牛肉 VEAU

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セルヴェル・デ・カニュ CERVELLE DES CANUTS

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モンブランとアイスクリーム TARTELETTE MONT BLANC


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サン・ジョルジュ地区の散歩


グールギヨン坂

サン・ジョルジュ地区の重要な坂道の一つのラ・モンテ・デュ・グールギヨン LA MONTEE DU GOURGUILLON は、旧市街地でもっとも美しい坂道である。トリニティ広場から登る古いガロ・ローマンの石畳の小道で、住民だけが車で入ることを許されている。

坂道の名前は、ラテン語のギュールギュリオ GURGILIO 、ガルグーイユ GARGOUILLE (喉、ゴルジュ GORGE を意味する)から来ている。一説では、177年、丘の上で執り行われたキリスト教徒の処刑で流された血がこの通りを流れ下りたそうだ。

この先のギニョールの劇場のある家 LA MAISON DE GUIGNOL 、めずらしい中世の建築の名残、木製の細いテラス GALARIES のついた家のある行き止まりの小さな道 L’IMPASSE TURQUET (イタリア北部のピエモンテの商人の名前に由来している)などが見所である。

中世には、サン・ジュスト SAIN JUST とフルヴィエールへ登るための主要な坂道であった。リヨンで最も古い通りの一つである。また、少し上へ登ると、通りからリヨン市の素晴らしいパノラマが見られる。

この先のアンティケイユ通り RUE DE L’ANTIQUAILLE から、ガロ・ロマンの遺跡 PARC ARCHEOLOGIQUE GALLO - ROMAN ( THEATRE と MUSEE ) まで登って行くこともできる。また、左手へ行くとサン・ジュスト教会へ出る。

長い間、この道はサン・ジュスト教会とサン・ジャン大聖堂の司教の行き交いに使われた唯一の道であり、数え切れないほど多くの、司教、法王、国王、王子たちが通った。

1305年に、サン・ジュスト教会で教皇クレメンス5世 PAPE CLEMENT が戴冠した。このあとサン・ジャン地区の修道院へ向かってグールギヨンの坂道を下っているときに、押し寄せた見物の群衆が壁に登り、その重みでこれが一行側へ倒れてしまう出来事が起こった。

法王は、怪我を負い、冠を飾っていた計り知れないほど高価な大きなダイアモンドを無くしてしまった。この時、法王の兄弟、ブルターニュの公爵 DUC DE BRETAGNE など、10人の人が死亡した。また、この時に法王が落とした宝石は、今でも発見されていないということである。


トリニテ広場

トリニテ広場、ラ・プラス・ドウ・ラ・トリニテ LA PLACE DE LA TRINITEは、5世紀からある古い交差点でサン・ジョルジュ地区の中心といえる。

広場の名前は、グールグイヨン坂の2番地にあったトリニティ僧 CHANOINES DE LA TRINITE の修道院の名前から来ている。

これらの宗教僧は、資金を集めて、主にアルジェ ALGER やチュニス TUNIS のクリスチャンの奴隷(サラセン人に捕らえられたらしい)を解放していたということである。

また、その形状から、トリアングル TRIANGLE 三角形の広場とも呼ばれている。5つの建物に取り囲まれ、5本の道路がこの広場で交差していて、これを取り囲む古い美しい家々も含めて、非常に魅力的な広場である。

特に、広場の西角にある建物が見所で、ムルゲ LAURENT MOUGUET によって広められた有名の人形劇の主人公を現した壁画の装飾、ギニョール GUIGNOL とニャフロン GNAFRON によって永久のものとなった。

この建物は、太陽の家 LA MAISON DU SOLEIL とも呼ばれている。1723年の建築で、一階の正面の壁の真中に、青をバックにした、黄色い太陽の紋章がある。18世紀にここに住んだ、バルー・デュ・ソレイユ BAROU DU SOLEIL という軍隊のキャプテンを参照している。

また、同じ建物の正面の2つの角のニッシュに乗せられている、聖母マリアの像と聖ピエールの像も宗教の街、旧市街地の特徴ををよく現している。


ブランションの家

ブランションの家 MAISON BLANCHON は、ソーヌ川沿いのフルシロン岸 QUAI FULCHIRON 7番地にある。1845年に、サン・ジョルジュ教会とフルヴィエール大聖堂を設計したボッサンが設計している。

特に、そのスタイルが変わっている。アラブ、中世、イタリアの影響を受けたというマウル式MAURESQUE で、他の建物とは大変異なっている。6階建てで、窓枠の装飾や扉が素晴らしい。また、クレピュ広場 PLACE CREPU 側の角には、子供を手にした聖母マリアの像が置かれている。



トリニティ広場


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サン・ジョルジュ教会


サン・ジョルジュ教会は、旧市街地の南側、サン・ジョルジュ地区にある。ネオ・ゴシック様式の教会で、1982年から歴史的建造物に指定されている。

古くは、サント・ウーラリー教会 EGLISE SAINTE EULALIE 。547年頃に、サセルドス SACERDOS 司教へ帰されるが、8世紀になってサラセン人の侵略時に破壊されてしまう。802年に、レイドラド大司教 LEIDRADE によって再建され、サン・ジョルジュと呼ばれるようになった。

14世紀には、教会として活動するとともに、マルタ騎士団 ODRE DE MALTE(貧困と病気のために行動するエルサレムの聖ヨハネ病院独立騎士修道会 les chevaliers DE L’ORDRE DES HOSPITALIERS DE SAINT-JEAN DE JERUSALEM )がサン・ジョルジュ地区 HOTEL DE LA COMMANDERIE DE SAINT - GEORGES に居住し、サン・ジョルジュ教会はその聖地とされた。

1844年に、フルヴィエール大聖堂を設計したボッサン PIERRE BOSSAN が新しい教会をデザインし、ブレッオン LOUIS BRESSON によって実現されている。ボッサンは、この教会は特徴があまりなく、自ら「若さによる罪」PECHE DE JEUNESSE と称したとか、、、。

正面入り口の扉の上には、デゥフレンヌ CHARLES DUFRAINE による彫刻、伝説で伝えられる「竜を退治している聖ジョージ」がある。扉の両脇から、聖ピエールと聖ジャンの像に伴われている。


サン・ジョルジュのこと

古代ギリシャ語では聖ゲオルギオス GEORGIOS (大地 GEO で働く ERG 人、農夫を意味する名)と呼ばれるキリスト教の聖人で、古代ローマ時代末期に殉教した一人である。フランスでは、サン・ジョルジュと呼ばれる。日本のカトリック教会では、聖ジオルジオ。

3世紀末にパレスチナのキリスト教の家庭に生まれ、軍人となった。302年に、ローマ皇帝によって出された政令で、棄教を強要されるが、これを拒んで殉教したと言われている。

ドラゴン退治の伝説は、11−12世紀の南コーカサスにあるグルジア共和国 GRUZIA のラシア LASIS という所の話と言われる。

ここには、巨大な竜が住んでいて、住人に毎日2匹の羊の生贄を要求していたが、やがて羊は一頭もいなくなり、人間が生贄として捧げられるようになった。ある日、王の娘に、生贄のくじが当たり、王様は、竜に8日の猶予を貰う。

この時、聖ジョルジュがここを通りかかり、この竜を退治した。この事と引き換えに、村人は、キリスト教の教えを受け入れたという。

のちに、聖ジョルジュは、キリスト教を嫌う王に捕らえられ、拷問を受けるが、棄教を拒み処刑されたということである。


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サン・ジョルジュ教会

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サン・ジョルジュ教会の入り口の彫刻 
サン・ジョルジュがドラゴンをとらえている様子
両脇には、聖ピエールと聖ジャンの像


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サン・ジュルジュ地区の歴史


芸術家のカルティエ

フルヴィエールの丘の麓、サン・ジャン大聖堂の南方、リヨン旧市街地3地区の中で、南側に位置する地区である。

中世以前の歴史は定かではない。ガロ・ローマン時代の港湾施設の存在が記されていて、航海者の生存が想像されている。また、最近の発掘では、かなり初期からこの地区にも人民が住んでいたことがわかってきている。

その後、野蛮人の侵略のあった中世の暗黒時代には、人々は、この地区を放棄し、ほとんどはサン・ジョルジュ教会の周辺だけに集中していたらしい。

11から12世紀には、川岸は交易の重要性を増し、建物が建築され、岸辺の強化、艀の遺跡から河川運送の活動が証明されている。

一方、1348年には、旅人が運んできたペストがカルティエに蔓延し、大きな被害を受けたという。14世紀のこの時期から、サン・ジョルジュ教会はマルタ騎士団 ODRE DE MALTEの聖地とされた。

15から16世紀に入ると、旧市街地の中でも、特に、職人や庶民の多く住む民衆地区として知られ、船乗りや漁師はソーヌ川岸に、職人、陶工、ツル織商、農業従事者などは丘側に、その数を増していった。

16世紀は、カルティエは絹織物で有名な場となるが、住民は、収入が増えるわけでもなく、生活は慎ましいものであったという。やがて、増加してゆく織物の職工に相対して、サン・ジョルジュのカニュは次第にクロワ・ルースへと移住していった。

そして、18世紀には、カニュの家庭の出身のムルゲ LAURENT MOURGUET が生まれ、人形劇ギニョールの誕生である。批判的な社会風刺とパロディーを通して、リヨン庶民の声を代弁したムルゲの胸像が、ドワイアンヌ広場 PLACE DU DOYENNE にある。

1844年、古い教会は取り壊され、現在のサン・ジョルジュ教会が再建された。同じ年に、ここからソーヌ川の対岸、エネ地区 QUARTIER L’AINAY へ渡る吊橋も建造される。1865年までは、通行税を支払ったそうである。

今日のサン・ジョルジュ地区は、中世の面影を残すオーセンティックなカルティエであるが、旧市街地のサン・ジャン地区などと比べると、どちらかというと、リヨネから忘れ去られ、建物や通りも古く改装も進められず、商店も少なく、観光客もあまり訪れない、隠匿した、見放されたカルティエである。


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ひっそりとしたサン・ジョルジュ地区の小道

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家の扉の上方の壁にあるサン・ジョルジュの彫刻 
伝説のドラゴン退治の様子


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サン・ポール地区の散歩


ジュイヴリー通り 

サン・ポール地区には、リヨン旧市街地の重要な通りの一つにジュイヴリー通りRUE JUIVERIEと呼ばれる、石畳の小さな歩行者天国の通りがある。

この中世の古い通りは、13世紀から14世紀にかけて多くのユダヤ人 LA JUIVERIE( POPULATION JUIVE )が住んでいたことから、このような名前で呼ばれた。ただ、彼らは、14世紀(1311年とも1379年ともいう)に、追放されてしまう。

家畜の市が開かれた通りでもあったが、15世紀末になって、この家畜市場を他へ移動させてから、名士や裕福な商人が家を建て、美しい通りに変身していった。

ここは、短い通りであるが、魅力的で、旧市街地のハートとも言える。旧市街地で、最も美しい建物があり、最も素晴らしい中庭が見出せる通りと言われている。リヨンの旧市街地に来たらぜひ歩いて、できれば中庭を覗いてみたい。

ほとんどの建物は、ルネッサンスの時代のもので、年世紀にもわたって残存してきた注目すべきもの、一見の価値があるものが多い。また、建物の基盤は、この時期より古いものがほとんどである。

8番地には、旧市街地の宝石の一つとされ、歴史的建造物にも指定されているブルイード家 ANTOINE BULLIOUD の建物がある。7つの建物と2つの中庭から構成されている。

また、1536年に、有名な建築家フィリベール・ドウ・ロルム PHILIBERT DE L’ORME によって完成された二つの家を繋ぐギャラリーで知られる。リヨンに残る最も素晴らしい建築の一つでとされている。

オジーヴの装飾のある通路を抜けた先にある井戸のある中庭に出る。かなり小さな中庭で、これを狭めることなく、また、井戸をとりこわさずに造られたギャラリーが、異なった二つの建物を繋いでいる。

便利さだけでなく、見た目が美しく、家主の社会的地位を象徴する建築の要望に答えたものという。フィリベール は、当時26歳でしかなかったが、このギャラリーは、彼の生涯の傑作とされている。後に、リヨンでなされたこのルネッサンス・スタイルの原型をフランス中に波及させた。

変わったところでは、16番地と18番地の間にあるピュネーズと呼ばれるとても細い小路 RUELLE PUNAISE (臭い小路のような意味)。これは、住民が流しの水を捨てた下水道であった所で、中世の名残の一つである。今は利用されていない。

22番地の建物は、15世紀の終わりに、バロナ家 FAMILLE BARONAT のために建築された。当時、バロナ家は、モンテ・デュ・シャンジュ通り MONTEE DU CHANGE に並ぶホテルのほとんどを所有していたそうである。

彫刻のなされた仕切りのある窓、建物の角に取り付けられた三階建ての小さな塔などが特徴的。美しい円柱と井戸のある中庭も素晴らしい。

23番地の建物は、1647年に建築されたデュガスの邸 MAISON DUGAS である。また、「ライオンの頭 TETES DE LIONS 」または、「ライオンの家 MAISON AUX LIONS 」ともよばれ、外壁に14のライオンの頭の彫刻が掲げられているのですぐに見分けられる。

一階はグレー色の石でできたアーケードのある長い壁、17世紀の典型的な仕切りのある窓などが特徴的フィレンツェのクラッシク・スタイル。当時は、旧市街地で最も美しい建物の一つとされた。

ここには、メディシィス家 LES MEDICIS が住んだ。また、パリの錬金術師ニコラ・フラメル NICOLAS FLAMEL によると、リヨンには、多くのユダヤの財宝が隠されていたが、この家はその財宝の隠されていた場所の一つであったようだ。

歴史エピソードでは、1515年、フランソワ1世は、4番地のパトランの家 LA MAISON CLAUDE PATERIN に滞在し、妻のベランジェール BERENGERE と仲睦まじかったという。その後、パテラン氏はブルゴーニュへ移住したが、1522年の家の売却の際に、国王のサラマンドル SALAMANDRE DU ROI を手にしたベランジェールの遺体が発見されたということである。なお、この家は、中庭にアンリ4世の胸像があることから、「アンリ4世の家 MAISON HENRI IV 」とも呼ばれている。

また、有名なノストラダムス NOSTRADAMUS もここに滞在し、カトウリーヌ・ドウ・メディシィス CATHERINE DE MEDICIS に助言を与えたと言われている。

また、通りには、13世紀末から18世紀のフランス革命にかけての街の役員 ECHEVIN(後に市長 MAIRE が役職を奪回)の掌紋が、名前と年代表示とともに掲げられているのがユニークである。


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8番地のブルイード家の扉

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10番地

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23番地のデュガ DUGAS の家

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壁に並ぶライオンの彫刻

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22番地 三階建ての小塔

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13世紀から18世紀にかけての当時の街の役員(後の市長)の掌紋
1463年、HUG BELLIEVRE

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1666年、LAURENT DE LA VEVHEの掌紋

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1303年、BARTH CHARRETON の掌紋

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1392年、JEAN FE PRESSIE の掌紋

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サン・ポール教会


サン・ポール教会は、旧市街地の北端、サン・ポール地区にある。サン・ジョルジュ教会、サン・ジャン大聖堂に並ぶリヨンで最も古い教会の一つである。

ロマネスク様式とゴシック様式が融合した建造物で、上部から光が入る塔 TOUR LANTERNEは1920年に、教会全体は1996年から歴史的建造物に指定されている。

549年に、リヨンの司教、聖サセルドス SAINT - SASERDO によって建築された。732年にムーア人、モール LES MAURES によって破壊されるが、サン・ジョルジュ教会と同様に、800年に、レイドラド大司教によって再建された。

10世紀には、サン・ポール教会と隣にあったサン・ローラン教会の後陣の背後に3つの墓地を持つリヨンで最も重要な共同墓地があった。

教会は、何世紀にもわたって、再建と修復が繰り返されてきた。12世紀から13世紀には教会の内陣と八角形をした二つの重なったドーム、13世紀には鐘楼、15から16世紀にはゴシック様式の側面のシャペル、18世紀には礼拝堂の奥殿、19世紀には革命による破壊後の大修復など。


聖ポールのこと

聖ポール SAIN - PAUL は、初期のキリスト教の理論家であり、新約聖書の著者の一人として、キリスト教発展の基礎を作った。ユダヤ名ではサウロ、ギリシャ語では、パウロス、日本では、パウエル。

カトリック教会では、使徒と呼ばれ、大変に崇敬されているが、イエスの死後に信仰に入ったため、イエスの弟子ではなく、「最後の晩餐」の12使徒の中には数えられていない。

古代ローマのタルソス(現在のトルコのタルスス)生まれのユダヤ人でテント職人であった。初めは、ユダヤ教徒であったが、キリスト教へ回心し、多くの異教人に布教を続けた。60年代後半、ネロ皇帝の時代にローマで殉死したと言われる。

34年頃に、ダマスコの近くで、「なぜ、私を迫害するのか」というイエスの声を聞いた後に、目が見えなくなるが、キリスト教徒のアナニアが彼のために神に祈り、目から鱗のようなものが落ちて、目が再び見えるようになったという。こうして、パウロはキリスト教徒に回心した。

この話は、「パウロの回心」と言われ、一般的には、イエスの幻を見て馬から落ちるパウロの姿で表現されている。

サン・ポール教会の入り口のネオ・ゴシックの扉の上の三角小間にも、この様子が表現された彫刻 「SAINT - PAUL SUR LE CHEMIN DE DAMAS 」がある。


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サン・ポール教会


奥に見える八角形をした二重のドーム
上部から光が入る塔 TOUR LANTERNE

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サン・ポール教会の入り口の扉

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馬から落ちている様子「パウロの回心」


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サン・ポール地区の歴史


ブルジョワ、商業と経済の中心のカルティエ

サン・ポール地区は、リヨン旧市街地3地区の中で、北側に位置し、サン・ポール教会を中心に形成されている。

中世上期から、サン・ポール僧会の聖所は、サン・ジャン僧会のそれに次ぐ強力なものであったことが知られている。

12世紀まで、サン・ポールは、旧市街地の中心地にあるサン・ジャン地区から隔離されていた。庭園、ぶどう畑、果樹園などに囲まれ、修道僧たちが閉じこもって生活できるように、壁に囲まれていた。

また、サン・ポール地区には、1384年に、シャール6世によって追放されるまで、現在のジュイヴェリー通りあたりに多くのユダヤ人が住み、コミュニティーを形成していた。

さらに、中世から、このカルティエは食品商業に専門化していった。特に、生肉業者が倉庫、厩舎、家畜などを引き連れて、サン・ポールに住居を定めた。

12から13世紀になると、橋、港、手形両替所(銀行)、さらにサン・エロワ病院 HOPITAL SAINT - ELOY などが近くであったことから、民衆を引きつけて人口が増加してゆく。この現象は、14から15世紀まで続く。

特に、リヨン市が自由市場の開催許可によって、重要な経済の中心地になると、サン・ポール地区もこの恩恵にあずかり、繁栄した。これは、15世紀に、現在のアンジル通り RUE DE L’ANGILE に、メディシス家 LES MEDICIS が銀行の支店の一つを置いたことでも象徴付けられる。

1553年には、ボンディー岸 QUAI DE BONDY に、南東の地域からくる全ての商品をコントロールする任務を負った税関も設けられた。フランス中からやってくる貴族や著名な人々が滞在する多くの旅籠屋も建てられた。

このように、ルネッサンスの時代にカルティエは新しい様相に変わってゆく。商人や大金持ちの人達が住居を修復、改装した。これらの素晴らしい建物が、現在でもジュイヴェリー通りやレネリ通り RUE LAINERIE で見うけられる。

やがて、サン・ポール地区は、シテの経済の中心となるシャンジュ広場まで広がっていった。まさに、ルネッサンスの時代は、商業と経済のカルティエとなり、サン・ポール地区の栄華の時代であった。



シャンジュ広場の手形交換所 LOGE DU CHANGE
現在は改革派教会と成っている

フランス国王シャール8世 CHARLES やルイ LOUIS 12世がここでパーティーを開催し、フランソワ FRANCOIS1世やアンリ HENRI 4世は、ジュイヴェリー通りに滞在した。

17世紀の劇作家モリエール MOLIERE は、ボンディー岸にあった LA SALLE DU JEU DE PAUME で、エトウルディ L’ETOURDI の最初の上映をしている。

同時に、サン・ポール地区は、宗教地区としても非常に活動が盛んであった。多くの宗教団体がここに修道院 COUVENT を設置した。(LES RAZARISTES、LES ROCOLLETS、LES CAPUCINS、LES CARMES DECHAUSSES、LES BENEDICTINES、LES AUGUSTINES など)幾つかは、現在も存在している。

さらに、二つの隠遁所 RECLUSERIE がサン・ベルテレミー坂 MONTEE SAINT-BARTHELEMY とピエール・シエーズ岸 QUAI PIERRE-SCIZE に建築されたことは、この地区が宗教的に重要であった様子をよく物語っている。

やがて、17から18世紀に入ると、シテの中心は、次第にソーヌ川の左岸、プレスキルへと移動して行き、サン・ポールは衰退してゆく。旧市街地は、次第にその影響力を失っていった。

特に、フランス革命の1789年には、旧市街地やフルヴィエールの丘の宗教的建造物の多くが破壊されてしまった。修道院は、公共の建物、軍隊、学校などに変換された。サン・ポール地区は、敗退の一途を辿った。

1872年から、サン・ポール教会の向かいに、マンジニ会社 MANGINI によって、リヨン - モンブリゾン線 LIGNE LYON - MONTBRISON のサン・ポール駅の工事が開始され、1876年に完成した。

この工事で、周辺の50戸以上の家が取り壊され、5つの通りが姿を消したという。また、サン・ポールとフルヴィエールの丘の反対側の町のゴルジュ・ドウ・ルー GORGE DE LOUP をつなぐトンネルも作られた。

さらに、刑務所の建築も計画されたが、最終的には、ペラッシュ駅の南部に、サン・ポールという名前の刑務所が建築された。ちなみに、この刑務所も近年に破壊、改造がなされ、カトリィック大学となっている。

1900年には、サン・ジャン地区からサン・ポールとフルヴィエールの丘を結ぶケーブル・カーが開通される。主に、フルヴィエールの丘の上の墓地 LOYASSE へ行くのが目的であったが、採算が取れずに、間も無く閉鎖となった。

多くの破壊と建築で、サン・ポールの様相は大きく変貌した。現在は、旧市街地で、最もモダンな様相をなしていると言える。

それでも、リオンのカルティの歴史とともに、それぞれの時代の名残り、何世紀にもわたる破壊と再建を繰り返しながらも残されてきたサン・ポール教会の中世の部位、ジュイヴェリー通りに残る中世の建物やルネッサンスの中庭などが守られている。

ちなみに、サン・ポールは、タベルニエ BERTRAND TAVERNIER 監督の「 L’HORLOGE DE SINT- PAUL 」など、映画の舞台にもしばしば登場しているようである。


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サン・ジャン地区の散歩


サン・ジャン通り

サン・ジャン地区のメイン・ストリートはサン・ジャン通り RUE SAINT-JEAN 。17世紀から、この名前で呼ばれているが、これ以前は、単に、“大道り”と呼ばれていたそうである。現在は、レストランや商店の密集する、リヨンで最も人通りの多い歩行者天国の一つとなっている。

3世紀に、リヨンの住民がフルヴィエールの丘上のルグドゥヌム LUGDUNUM を下りて現在の旧市街地へ移住してきた頃から存在するとても古い石畳の小路で、エシャンジュ広場 PLACE DU ECHANGE (手形交換所)とサン・ジャン大聖堂の広場を繋いで入る。

サン・ジャン通りは、通りの両側に並ぶ古い家々が見所。多くの家は、中世の基盤の上に、ルネッサンスの建築と装飾がなされていて、その殆どが1937年に歴史的建造物に指定されている。

さらに、サン・ジャン地区を含めたリヨン旧市街地の3地区は、1964年からは、文化大臣マルロー(マルロー法 LOI MALRAUX )によって、フランスで初めての歴史的保護地区に指定されている。

入口の扉、窓枠、アーチ状の柱、彫刻、などが美しい。また、本当に素晴らしいのは、内部の中庭にあるギャラリー、回り階段、井戸などのあるトラブールである。まさに、15から16世紀にかけてのリヨンの繁栄を伝える通りである。ゆっくり静かに歩いてみたい。

外から見られる家々の特徴的は、

2番地の二つに分かれた不思議な入口、6番地の窓と桁、7番地の特徴的な窓枠、11番地の厳格な扉(1619年)、12番地のクジャクの彫刻、16番地の天使とリスの彫刻(リヨンでよく見られる)、17番地の交差した欄間、27番地の窓枠、29番地の松の実の飾りとアーチ状の扉(15世紀に建築のヴィストの家 MAISON DES LE VESTE )、37番地のシャマリエの家 (1496−1516年に建築、MAISON DU CHAMARIER)、39番地の入口の扉、40番地の聖人の彫刻(頭を少しかしげて、通行人を監視しているとも言われる)、44番地の奇妙な正面、52番地のラテン語の記載(15世紀のレロワの家 RESIDENCE GILLAUME LEROY )、66番地の彫刻とアーチ型の要石、トラマサック通り RUE TRAMASSAC の角にあるマリア像、グーヴェルヌモン広場 PLACE GOUVERNEMENTにあるマリア像など、数多い。

また、リヨン風の特徴的建築が大変興味深いトラブールで、一般公開されているものには、

7番地からロマン・ローラン岸へゆくもの、
10番地からガダーニュ通り2番へ抜けるもの、
27番地からトロワ・マリー通りへ抜けるもの(2つの中庭)、
34番地からブフ通りへ抜けるもの、
40番地からヌーヴ・サン・ジャン通りへ抜けるもの、
41番地からマンデロ通りへ抜けるもの、
50番地には2つの塔のある中庭
44番地には2つの螺旋階段のある中庭などがある。

ルネッサンス時代の王室の訪問した所としても重要であった。1465年に、ルイ1世 LOUIS 、サヴォワの公爵 DUC DE SAVOIE が痛風の発作 CRIDE DE GOUTTE で亡くなったのもこの通りであったそうだ。また、シェマリエの家には、1672−1673年に、セヴィニエの公爵夫人 MARQUISE DE SEVIGNE が滞在している。

変わった所では、裁判所のあった35番地。1910年に、ロカー医師 docteur EDMOND LOCARD が、警察の科学研究所 POLICE SCIENTIFIQUE を始めた場所である。


ブフ通り 

ブフ通り RUE DU BOEUF は、サン・ジャン地区のもう一つの歩行者天国通り。サン・ジャン通りと並行して走り、北はガダーニュ通り RUE GADAGNE 、南はトラマサック通り RUE TRAMASSAC へと繋がっている。

通りに並ぶ家々は、すべて、16−17世紀頃の中世のものばかりである。11番地の扉枠、14番地の欄間 IMPOSTE の彫刻、16番地の扉枠と欄間 IMPOSTE の彫刻、19番地の看板(1708年)、21番地の扉、22番地のメダルのポートレートなどが見所。

また、旧市街地で最も長いことで有名なトラブールは、ブフ通り27番地からサン・ジャン通り54番地へ、4つの家を通り抜けて続いている。ブフ通り7番地からサン・ジャン通り34番地へ抜けているトラブールは、中庭が素晴らしい。16番地のクリブルの家 MAISON DU CRIBLE のラ・トウール・ローズ LA TOUR ROSE の見事なバラ色の塔も見逃せない。

特に、有名で素晴らしいのが、ラ・クール・デ・ロージュ LA COUR DES LOGES 。レストランとホテルを兼ね、催し物の会場にもなるので、ぜひ内部に入って素晴らしい建築を見てみたい。フーセレ広場 PLACE FOUSSERET には、この壁画がある。

ボンバルド通り RUE DE LA BONBARDE との角には、手のないマリア様の彫像がある。ヌーヴ・サン・ジャン広場 PLACE NEUVE SAINT JEAN の角には、ブフ(牡牛)の像もある。ところで、ブフ通りは、16世紀にこのブフの像が置かれるまでは、ブフ通りはトラマサック通りの一部をなしていたそうだ。

また、何世紀も前は、フルヴィエールの丘のローマ劇場の上にあったシベールの神殿 LE TEMPLE DE CYBELE (キュベレーという古代の大地母神のフランス名)での儀式へ向かう生贄の牡牛の行進がここを通過したという。

ルイ12世に魔法を教えたという錬金術者ジャン JEAN が住み着いた所としても知られている。また、15世紀には、硬貨の製造所があり、1491年に、シャール8世 CHARLES とアン・ドウ・ブルターニュ ANNE DE BRETAGNE の結婚を祝う最初の硬貨、ルイ12世の肖像のある硬貨などが製造されている。これらの硬貨は、リヨン美術館に収められている。


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フランソワ1世が滞在したガダーニュ

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ラ・クール・デ・ロージュの ホテル

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ブッフ通りの建物の角のブッフ(雄牛)の像


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プロフィール

織葉 ケイ

Author:織葉 ケイ
フランスのリヨン市に住んでいます。
ユネスコの世界遺産に指定されている歴史地区、世界的に著名なグルメの街、ヨーロッパ有数のテット・ドール公園の四季、そして、毎日の暮らしのことなど、お便りします。

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